世界をチェスに例える人、あなたはそのプレイヤーだと感じているんでしょうか。
確かに世界はチェスみたいなものだ。だけど、あなたもその駒の一つに過ぎない。
この考えに立って考えるとき、あなたはあなたに味方がいるのだということと敵がいるのだということを私たちに知らせてくる。
敵の脅威に対し、互いに守りあう者、一方的に守り、守られる者、ひとり孤独に立っている者、自由な道を持つ者、周りに道を塞がれどこにも行き場がない者、そうした者たちの中にあなたがいる。
あなたは、この中のどの駒だと自分を考えるのだろう、もしかしたらキングでしょうか、あなたがこのゲームを認識する中心として重要な位置についていると考える限り、そうなのかもしれません。普通のチェスではキングの価値は計り知れない、なぜならゲームの勝ち負けはキングの生死に関わってくるから。
しかし、このチェス、どうにも普通のチェスとルールが違う。キングが死んでもゲームが続くのだから。
だいいち、あなた、本当にキングなんですか? ポーンかもしれませんよ。
でもね、それでも、あなたが敵陣を突っ切って最後の列にまで達せば、クイーンには成れるんです。
守られて生きるキングでいるのか、それとも常に何かの可能性としてポーンであるのか、あなたがどちらであるかは誰も知らない。それにどちらにせよ、試合運びをするのはあなたじゃない、あなたを動かす誰かだ。
2011年8月1日月曜日
2011年7月27日水曜日
あなたのことばは間違っている
あなたのことばは間違っている
私がそれを叫んだとして
私のことばはそれ以上に間違っている。
あなたは言葉に間違い
言葉はあなたを間違う。
私たちは言葉を殺さなければならない
無限に増え続ける彼らのために
なぜなら、彼らの血こそが
彼らの母乳であり
羊水であるのだから。
あなたと私のことばはそうして
間違っていく
あなたは叫ぶのですか?
あなたは叫ぶのですか?
どこに向かって? そこに向かって。
いえ、あなたに聞いているんです。
あなたに向かって? あなたに。
あなたにいるわたしは元気ですか?
わたし? わたしですか? わたしは元気です。
いえ、あなたに聞いてはいません。
わたしに聞いてます。 わたしに。
わたしがあなたと口にするたびに
あなたが生まれます。
なのにあなたがわたしと口にしても
私は生まれない。
2011年7月3日日曜日
カフカの翻訳「木々」
原文
Die Bäume
Denn wir sind wie Baumstämme im Schnee. Scheinbar liegen sie glatt auf, und mit kleinem Anstoß sollte man sie wegschieben können. Nein, das kann man nicht denn sie sind fest mit dem Boden verbunden. Aber sieh, sogar das ist nur scheinbar.
翻訳
木々
私たちは雪の中の木の幹みたいなものなのだから。その滑らかな上に乗っかっているように見えて、ちょっと押したら取れて押せるように思えるけれど。いや、そんなことは出来はしない、地面としっかり繋がっているのだから。でも見てみなよ、それさえもそう見えるだけのことなんだ。
自分の思考に否定を重ねるような文章。最初のDennのために、何か話の途中を抜き出したような印象を受ける。私たちと「雪の中の木の幹」を同じと見ているが、後に続く言葉は、その「雪の中の木の幹」に対する言葉であり、一体それが「私たち」のどのような部分を指しているのか、分からない。カフカの作品の中でも生前に発表されたこの作品、初期に位置している。短いながらも、カフカらしさが詰まっている。「そう見えるだけ」、カフカほど「見ること」を疑った作家がいるだろうか。
Die Bäume
Denn wir sind wie Baumstämme im Schnee. Scheinbar liegen sie glatt auf, und mit kleinem Anstoß sollte man sie wegschieben können. Nein, das kann man nicht denn sie sind fest mit dem Boden verbunden. Aber sieh, sogar das ist nur scheinbar.
翻訳
木々
私たちは雪の中の木の幹みたいなものなのだから。その滑らかな上に乗っかっているように見えて、ちょっと押したら取れて押せるように思えるけれど。いや、そんなことは出来はしない、地面としっかり繋がっているのだから。でも見てみなよ、それさえもそう見えるだけのことなんだ。
自分の思考に否定を重ねるような文章。最初のDennのために、何か話の途中を抜き出したような印象を受ける。私たちと「雪の中の木の幹」を同じと見ているが、後に続く言葉は、その「雪の中の木の幹」に対する言葉であり、一体それが「私たち」のどのような部分を指しているのか、分からない。カフカの作品の中でも生前に発表されたこの作品、初期に位置している。短いながらも、カフカらしさが詰まっている。「そう見えるだけ」、カフカほど「見ること」を疑った作家がいるだろうか。
まどろむ
時計の針が部屋の中でひどく響くのだった。そのためにうまく寝られず、目を閉じても、周囲への感覚が鈍くならないで気疲れして目を開けると、霞む視界に浮かぶ文字盤を秒針ばかりが回っている。まだ五分も経っていない。夜の長さ、特に目が覚めているときの夜の長さは有限であるからこそ、永遠に続くように感じられた。床についたのは一時を過ぎていたはずだから、もう三時間もすれば空が白み、窓から透ける光で、夜を乗り越えるのだと鼻辺りまで身を包んだ布団のほこり臭さをかぎながら、目を閉じてはいられなくなるから、早く眠りにつかなければならない。それなのに眠りはいつまでも向こうから来る気配がなかった。こういうときについ枕もとにある本を手に取り、頭を疲れさせようとするけれども、大抵は失敗に終わり、余計に冴えてしまう。小説に出てくるひげ剃り用かみそりや、論文の途中に出てくる何を表わすのか掴めない数式が頭をぐるぐるまわるからだ。時計の秒針よりも速く、速く。頭の中で回る心像のひとつひとつはその時の自分にとってもっとも意味の無いものであり、もっとも遠いものであったはずなのに、夜という時間と寝るための場所によって、それらは近くなる。
2011年6月23日木曜日
短文「停滞の日」
怠惰とは違う停滞を味わいながら、人に文句の云われない程度の酒をたしなんでいた。酒の表面にほこりのように積もるそれのせいで中々呑みこめない、そんな日だった。普段は氷を入れるグラスもその日は入れず、とろとろとした温みを含んだ液体を胃に流しこもうとすると、粘り気のあるみたいに入っていかない。それもこれもこの停滞のせい、すべてはそう……、とその時は考えていた。
苦しい、と云う訳ではなく、ただ、ただ、何もない、本当に、と自問しても、返ってくるのは、本当に。自分の心がそう思っているのだ、いくら聞いても答えは同じに決まっている、変化のない自分と自分の問答、はなから質問なんてこれしかない、本当に。
もうたいくつかすらも分からない。全てのことから自分を切り離して、残るものが自分ではなく、たいくつであるなら、自分こそがたいくつなのだから、たいくつを感じると云うのは、自分を感じることであり、結局たいくつが自分であり続ける以上、そこにあるたいくつは自分。手にもったグラスも、中にある酒も、たいくつであり、自分だ。そんな考えがぐるりぐるりとまわった。
苦しい、と云う訳ではなく、ただ、ただ、何もない、本当に、と自問しても、返ってくるのは、本当に。自分の心がそう思っているのだ、いくら聞いても答えは同じに決まっている、変化のない自分と自分の問答、はなから質問なんてこれしかない、本当に。
もうたいくつかすらも分からない。全てのことから自分を切り離して、残るものが自分ではなく、たいくつであるなら、自分こそがたいくつなのだから、たいくつを感じると云うのは、自分を感じることであり、結局たいくつが自分であり続ける以上、そこにあるたいくつは自分。手にもったグラスも、中にある酒も、たいくつであり、自分だ。そんな考えがぐるりぐるりとまわった。
2011年5月11日水曜日
最近の読書事情。
詠むものが少し、方向転換したような気がする。
どうしてもということから、日本の古典をさらっている。古今集などもちらちら読むようになった。
ドナルド・キーンの日本文学史を原著で購入。ちょっと後悔。
でも、日本語だと18巻になるところ(しかも、今は売ってない。文庫化がどんどんされているけれど)が、四巻ですむからスペース的にはエコだ。(と思ったが、結局文庫版は購入しているので、どっこいどっこいになりそうな予感)
ただ英語だと、知っていることも、何のことだか分からない場合が出てくる。
例えば、一番最初の前書きにでてくる引用。
Xian ji was filled with wrath at Hongmei;
Load Pei, bent and bowed, came to pay him homage.
Fan Zeng plotted harm, but was refused.
Secretly handing over his sword, he made a pact with Zhuang.
Wen Hsuanという中国の文集からどうこうと書かれており、なんじゃこりゃ、と思っていたら。高校の教科書にも載っている有名なエピソードでありました。(普段なら拙訳をのせるところですが、突然出てきたときのわたしの狼狽えを共感して欲しいので、あえての省略)
また、紀貫之の古今集仮名序の冒頭「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」なども、
Japanese poetry has its seeds in the human heart and burgeons into many different kinds of leaves of words.
となっていて面白い。最近では、わざわざウェイリー訳の源氏物語を日本語に再訳していたりもしますから、こういうのを読むのはあるいみ、外国の日本古典受容の如何をみるものであると同時に、日本語と外国語の間を往復し、内容のみを残す(言葉を削いで意味を残すような)作業はある意味、言葉に立ち止まる良い機会になっています。
そんなこんなで内には、ずいぶん洋書もそろいました。
芥川や夏目漱石の『三四郎』のドイツ語訳なんかも買ってしまった・・・・・・。
いっぽう、和書は何を読んでいるかと言いますと、めっぽう今は「須賀敦子全集」と「抄訳版 失われた時を求めて(鈴木道彦訳)」を読んでいます。
須賀敦子さんは、もう亡くなられたイタリア文学の翻訳者。知り合いがいぜん読んでいたというのも実は動機であるのですが、そのとき買っていたものにようやく手をつけている次第。いやあ、なぜ早く読まなかったのだろうと、後悔していますが、むしろ、今だからこそこうやって心に響いているのだと思うようにしました。そして、イタリアに嵌っていくという、イタリア語の語学書なんか買いあさったという・・・・・・。
そして、キーンの日本文学史とは真逆に邦訳で読んでいるプルースト(いま、自分かなり変なことしてるよなあと思ってしまった)ですが、全訳はさすがにハードルが高いので評判の高い抄訳を読むことに。プルースト的な感覚はやはり現代文学の転換にとって重要なファクターだったと思います。しかし、いまだプチット・マドレーヌどまりだったのが心残りで、重い腰をようやく上げてみたところです。やはり、マドレーヌから昔の記憶を甦らせる箇所のあざやかさったらないですよ!
と、そんな読書生活を送ってます。
どうしてもということから、日本の古典をさらっている。古今集などもちらちら読むようになった。
ドナルド・キーンの日本文学史を原著で購入。ちょっと後悔。
でも、日本語だと18巻になるところ(しかも、今は売ってない。文庫化がどんどんされているけれど)が、四巻ですむからスペース的にはエコだ。(と思ったが、結局文庫版は購入しているので、どっこいどっこいになりそうな予感)
ただ英語だと、知っていることも、何のことだか分からない場合が出てくる。
例えば、一番最初の前書きにでてくる引用。
Xian ji was filled with wrath at Hongmei;
Load Pei, bent and bowed, came to pay him homage.
Fan Zeng plotted harm, but was refused.
Secretly handing over his sword, he made a pact with Zhuang.
Wen Hsuanという中国の文集からどうこうと書かれており、なんじゃこりゃ、と思っていたら。高校の教科書にも載っている有名なエピソードでありました。(普段なら拙訳をのせるところですが、突然出てきたときのわたしの狼狽えを共感して欲しいので、あえての省略)
また、紀貫之の古今集仮名序の冒頭「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」なども、
Japanese poetry has its seeds in the human heart and burgeons into many different kinds of leaves of words.
となっていて面白い。最近では、わざわざウェイリー訳の源氏物語を日本語に再訳していたりもしますから、こういうのを読むのはあるいみ、外国の日本古典受容の如何をみるものであると同時に、日本語と外国語の間を往復し、内容のみを残す(言葉を削いで意味を残すような)作業はある意味、言葉に立ち止まる良い機会になっています。
そんなこんなで内には、ずいぶん洋書もそろいました。
芥川や夏目漱石の『三四郎』のドイツ語訳なんかも買ってしまった・・・・・・。
いっぽう、和書は何を読んでいるかと言いますと、めっぽう今は「須賀敦子全集」と「抄訳版 失われた時を求めて(鈴木道彦訳)」を読んでいます。
須賀敦子さんは、もう亡くなられたイタリア文学の翻訳者。知り合いがいぜん読んでいたというのも実は動機であるのですが、そのとき買っていたものにようやく手をつけている次第。いやあ、なぜ早く読まなかったのだろうと、後悔していますが、むしろ、今だからこそこうやって心に響いているのだと思うようにしました。そして、イタリアに嵌っていくという、イタリア語の語学書なんか買いあさったという・・・・・・。
そして、キーンの日本文学史とは真逆に邦訳で読んでいるプルースト(いま、自分かなり変なことしてるよなあと思ってしまった)ですが、全訳はさすがにハードルが高いので評判の高い抄訳を読むことに。プルースト的な感覚はやはり現代文学の転換にとって重要なファクターだったと思います。しかし、いまだプチット・マドレーヌどまりだったのが心残りで、重い腰をようやく上げてみたところです。やはり、マドレーヌから昔の記憶を甦らせる箇所のあざやかさったらないですよ!
と、そんな読書生活を送ってます。
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