空の雲あいが落ち着かず、突然の雨に見舞われることも多々あるから、外に出る前に上を見るくせがついてしまった。それで、今日は大丈夫だろうと、考えていると、夕方辺りにぽつぽつ降るのだから困る。特に洗濯物がたまって、せっかく洗ったとしても、部屋の中で干すから、独特の饐えたような嫌なにおいが鼻をつく。なかなか時間がとれず、夜中に洗濯機を回したりするせいで、部屋が少し締めっぽくなり、そんな空気の中で眠ると、どうやら夢も湿っぽくなるらしい。
夢と言っても、何かしら意味を持ったような夢、夢の解釈という俎上に載せて耐えるようなものでなく、何か周りの刺激によって偶然浮かびえた印象のつぎはぎでしかない。ただ、フロイトも言う、たとえ外的刺激によって、それに類する夢を見るといって、なぜその夢の像はそうでなければならぬのか、と。こういうところにフロイトの発想のおもしろさや鋭さを感じるのであるが、たしかに、こたつに入って眠り、砂漠の夢を見たとして、こたつの熱さが、砂漠を想起させていることは間違いないが、なぜ砂漠なのか、夏の山、夏の海ではなく、なぜ砂漠なのか、それを説明しようと考えを巡らすことに「あり得ない」の一言で一蹴するのは、どうも考えを放り出してしまっているように思えてしまうから、フロイト先生がどう考えているのであれ、ある種多くの人にとって偶然としか思えないものに論理的なつながりを説明しようと努めてみる。
続く
2014年6月21日土曜日
2014年6月15日日曜日
語学を「嗜む」ということ
大学でドイツ語を初めて以来、一〇年が経ち、自分の中で「外国語と暮らす」ことは生活の一部になっている。それでいながら、いっこうに外国そのものに興味をもつことが無いのは、自分にはことばというものばかりが目の前にあり、そのほかの、とくに国といったものがあまりに遠く、触れようのないものであるために、たとえばその国の人が何を食べどのような家に住むのかを知るのと、隣三軒の人々が日々どのように暮らしているかを知るのとが、たいした違いが無いように思えてしまうのと同じで、興味の無さそのものに原因があるのではないかと考えている。つまり、どんなに近くても、知りたいと思わなければ遠いのであり、遠さそのものが遠い近いを決めるとは限らない。
だからといって、言語学者になりたいなどと思ったことはついぞ無く、やはり言葉を「通して」なにかを知ることに楽しみがあるのだけれど、自分はそれがより個人の方へ向いているのも、外国というものへの興味の無さに関係しているのだろう。
たとえば、ドイツ語はカフカ、フランス語はアンリ・ド・レニエなどの世紀末の文学者、ポルトガル語はフェルナンド・ペソアなどなど。
よく、作家の生まれ故郷へ行くことで作家のことを知った気になる人がいるけれども、あれはいまいちぴんとこない。彼らは地平という横の向きばかりで同じところに立っていると考えるようだけれども、時間という縦の軸から見れば著しくずれているではないか。しかも時間を同じくすることは不可能ではないか。
出不精の戯言と思う人もいるだろうけれど、言葉のみで向き合うからこそのおもしろさというもの、想像の膨らみ(あるいは、誇大妄想)に耽る喜びを忘れることは、なんだか頭の中にある泉を枯らしてしまうことにつながるのではないだろうか。
ある意味でリアリティではなく、リアルが隣にありすぎることに、人が疲弊してしまうこと。
確かに僕らが向き合う物は概してリアルなものだ、それは別に創作物であろうと変わりない。つまり、書かれたり、描かれたり、演じられたり、撮られたり、弾かれたり、そういったことを「されたもの」がいくらフィクションの側のものであっても、それに出会っている、対峙していること、そのものはあくまで現実のことで、僕らはその現実の中でフィクションの側のリアルを感じている、それがリアリティというものなんじゃないだろうか。
それなのに、今はこちら(現実)のリアルをあちら(虚構)に持ち込み、あちらのリアルをこちらにもちこむことが意識されないままに行われているせいで、こちらとあちらの距離感がくるってきているような気がする。
ぼくは現実と虚構のあいだに国境みたいなものがあるとは思わないし、そのあわいはもっとゆるやかなものだと考えている。そこにあるのはもしかしたら二色の濃淡でしかないのかもしれない。
濃淡という、地平よりももっとセンシティブなものであるからこそ、慎重に扱うべきなのに、当たり前のように線引きできると考えているから線引きしたところの近くで混じっていた向こう側のものがすべてこちら側として扱われてしまう。灰色は無数の灰色があるはずなのに、すべては白か黒になる。
僕らがもっと大切にしなければならないのは、リアルではなく、「リアルとの距離感」じゃないだろうか。
言語を嗜むという行為には、その距離感を感じることの出来る可能性が含まれているように思えるのだ。
2014年1月28日火曜日
世界の外にあるものに敬意を払う。
光文社新訳文庫『論理哲学論考』 ヴィトゲンシュタイン 丘沢静也・訳
今回、久しぶりに論考を読み通した。
丘沢訳は正直自分には合わない、と思うことが多かった。たとえば、同じ文庫から出ているカフカの『訴訟』などは、わかりやすい訳という信念と、ユーモアあふれるカフカという自身の考える像からどうしてもカフカの文章をゆがめているように思われて好きになれなかった(読みやすさでいうならこの訳かもしれないので、初めて読む人にはこれを勧めたいけれども)。今回も「言語たち」などといった抽象名詞に「たち」をつけるなどの書き方は、合わない。
だが、全体を通して読んでみると、岩波文庫から出ている野矢茂樹の訳よりも自分の思っているヴィトゲンシュタイン像に近いと思った。それはやはり、ドイツ文学者が訳したからというのもあると思う。ヴィトゲンシュタインはオーストリア人であり、イギリスの「ウィトゲンシュタイン」ではけっしてないのだと感じることができる。
ヴィトゲンシュタインの著作を読むとき、自分が思ったのは、世界の簡潔性ではなく、世界の外への「敬意」、語り得ぬものに対するその「語ることの出来なさ」を尊重することの重要性だった。(いま直感的に思ったのは、村上春樹の小説は一連としてこのことを意識しているということ)
カフカが何かしら「世界の中でもがくこと」を示したとするなら、ヴィトゲンシュタインが示したものもまたこの世界の中でもがくことのように思う。
2013年10月28日月曜日
音楽について
吉田秀和を読むと、音楽が聴きたくなる。これこそ音楽批評だと思う。大抵のCDなんかに付いてる解説なんか見たって仕方が無い、それが何年に作られ、その時作曲者は云々なんて話を聴いてもしょうが無い。時々、作曲者が誰それ、とか、曲名はどうこう、なんてこと自体いらない、なんて考えもする。どこかでラジオか有線で流れてくる曲に耳を傾けるくらいがちょうどいいと思ったり。あとで気になっても、調べようが無いのが不便だけれど、まあ、一期一会。
それだから、こと音楽に関する本はほとんど読まなかった。中学から音楽をやってて、それも惰性で十年は続けていたのに。たまにネックの歪んだギターの調子を合わせて、バッハのリュート組曲とか、ピアソラのブエノスアイレスの夏とかをリズムもテンポもたどたどしく鳴らしたりするのに。それくらいには音楽になじみがあって、たまに買ったりするのだけれど、それきりのものばかり、あえていうなら、読んだ本、楽典、管弦楽法、ってなる。だから、楽譜を読むのに苦労は無いけど、それだけだ。結局、音楽は自分にとってやるものでもない、かといって、聴くものなのかというと少し違う。よく、心の底からの感動を吐露する人がいるけれど、そういう類の動揺を感じることは今まで無かった。それをいったら、小説だって、映画だって、漫画だって。どこか冷めてる、人が良いと言うから読む、観る、聴く、ただそれだけのことが多い、基本感動できない人間なのだ。
だから、吉田秀和の本を読むというのは自分としては異例のことで、しかも、面白いと思っている自分がいることもまた異例なのだ。その「おもしろい」と思う感覚は、Interessantの方で、Amuseでないところがまた自分らしいと思うのだけれど。例えば、丸谷才一を読んでいるときに感じる感覚もまさにこれで、それは旧仮名遣いというものだったり、常体と敬体を織り交ぜた文章だったり、ジョイスから発想を得た、意識の流れを感じさせるあのモダニズムな前期の作品群だったりとそういうものに対する「おもしろい」の感覚なのだ。
丸谷才一のエッセイを読んでいると、時折この吉田秀和の名前をみる。どちらも桐朋学園で教鞭をとっていたんだそうだ。かたや東大英文、かたや仏文、縁もあるから褒めるのかもしれないと思ったけれど、丸谷才一はあまりそういうことをしない人だ、つまり良いから良い、悪いから悪いとはっきりしてる。日本のエッセイを作り替えた一人であると言い切れるこの人が、批評の文体を学んだとはっきり言っているのが吉田秀和。ここまで言いきれるっていうのがすごい。
話がそれている。とにかく、吉田秀和の本は自分の肌に合うのか、手がしびれたり、目が疲れたりするのも構わず、先へ先へと読んでしまう。
初めて読んだのは「主題と変奏」、中公文庫。薄い本でさらっと読めるのだけれど、そこにある文章は二度読んでも三度読んでも良い。なぜだろうと考えてみると、やはり無理が無いというか、自分の感覚を裏付けているものに対してブレが無いからなんだろう、と思う。たとえば、同じ私が思っていることは誰それがいっているという言葉にしても、普通なら権威主義に思えてしまうのが、吉田秀和の文章を読むと感情としても理性としてもその土台がしっかりしているからか、そうした一流の人々の言葉はあくまで添え物で自分の言葉がメインであるという感じがする。まさに、一流の料理は一流の素材のことではない、と教えられる気分だ(まあ、一流の料理なんて食べたことがない自分がいうのもあれですが)。
たとえばベートーヴェンの弦楽四重奏、どうしてもカルテットという形態に対して、何がおもしろいのかさっぱり分からなかった自分が四重奏をおもしろいと思えるようになったのは、ラヴェルとドビュッシーの四重奏と、アルバン・ベルク四重奏、そして吉田秀和の文章なのだ。流れとしては、まず二人の作曲家の曲があり、そして演奏者と批評家が同時に自分にそれを教えた形になっている、といってもその間にはかなり開きがあるが。そもそもなぜカルテットの良さが分からなかったかというと、簡単に言えば、自分が仲間はずれにされていたから。コントラバスをやっていた自分にはカルテットに触れる機会も無ければ、興味を持つきっかけもなかったのである。そもそもピアノの音があまり好きでは無いという理由でピアノ曲を聴かないなど、音楽の偏食が激しい自分としては、理由は後付けみたいなもので、きっと食わず嫌いか何かだったのだろう(最近ではピアノ曲も聴く、特にベートーヴェンの後期ソナタ)。
食わず嫌いというと、それは自分の一つの本性みたいなもので、偏見というかそういったものに対して人一倍反応する自分は、多分他の人の数倍は偏見を持っている。そういう偏りを治したいと思ったけれど、それがかなり微妙なバランスで、たぶんどこかに手を付けたら、とたん崩れてしまうので、やめた。だから、以前は受け付けなかったものを享受できるのは、偏見が無くなったからだというよりも、その数ある偏見の中で上手く処理できるようになったというのが正しい。そんなものなんだろうと思う、好きになるというのは。
自分が好きな作家や人物って言うのはある意味「頑固」な人が多い気がする。自分を曲げない人間、偏屈というのではなく。もしかしたら、丸谷さんも吉田さんも実際会ってみると付き合いづらい人たちなのかもしれない。といっても、話す機会は訪れることはないけれど。自分もそんな頑固さを持っていたいのだ、できれば。
ちくま文庫吉田秀和コレクションの中の「私の好きな曲」を読みながら、ベートーヴェンの四重奏曲を聴いて、思ったことを書いてみた。
それだから、こと音楽に関する本はほとんど読まなかった。中学から音楽をやってて、それも惰性で十年は続けていたのに。たまにネックの歪んだギターの調子を合わせて、バッハのリュート組曲とか、ピアソラのブエノスアイレスの夏とかをリズムもテンポもたどたどしく鳴らしたりするのに。それくらいには音楽になじみがあって、たまに買ったりするのだけれど、それきりのものばかり、あえていうなら、読んだ本、楽典、管弦楽法、ってなる。だから、楽譜を読むのに苦労は無いけど、それだけだ。結局、音楽は自分にとってやるものでもない、かといって、聴くものなのかというと少し違う。よく、心の底からの感動を吐露する人がいるけれど、そういう類の動揺を感じることは今まで無かった。それをいったら、小説だって、映画だって、漫画だって。どこか冷めてる、人が良いと言うから読む、観る、聴く、ただそれだけのことが多い、基本感動できない人間なのだ。
だから、吉田秀和の本を読むというのは自分としては異例のことで、しかも、面白いと思っている自分がいることもまた異例なのだ。その「おもしろい」と思う感覚は、Interessantの方で、Amuseでないところがまた自分らしいと思うのだけれど。例えば、丸谷才一を読んでいるときに感じる感覚もまさにこれで、それは旧仮名遣いというものだったり、常体と敬体を織り交ぜた文章だったり、ジョイスから発想を得た、意識の流れを感じさせるあのモダニズムな前期の作品群だったりとそういうものに対する「おもしろい」の感覚なのだ。
丸谷才一のエッセイを読んでいると、時折この吉田秀和の名前をみる。どちらも桐朋学園で教鞭をとっていたんだそうだ。かたや東大英文、かたや仏文、縁もあるから褒めるのかもしれないと思ったけれど、丸谷才一はあまりそういうことをしない人だ、つまり良いから良い、悪いから悪いとはっきりしてる。日本のエッセイを作り替えた一人であると言い切れるこの人が、批評の文体を学んだとはっきり言っているのが吉田秀和。ここまで言いきれるっていうのがすごい。
話がそれている。とにかく、吉田秀和の本は自分の肌に合うのか、手がしびれたり、目が疲れたりするのも構わず、先へ先へと読んでしまう。
初めて読んだのは「主題と変奏」、中公文庫。薄い本でさらっと読めるのだけれど、そこにある文章は二度読んでも三度読んでも良い。なぜだろうと考えてみると、やはり無理が無いというか、自分の感覚を裏付けているものに対してブレが無いからなんだろう、と思う。たとえば、同じ私が思っていることは誰それがいっているという言葉にしても、普通なら権威主義に思えてしまうのが、吉田秀和の文章を読むと感情としても理性としてもその土台がしっかりしているからか、そうした一流の人々の言葉はあくまで添え物で自分の言葉がメインであるという感じがする。まさに、一流の料理は一流の素材のことではない、と教えられる気分だ(まあ、一流の料理なんて食べたことがない自分がいうのもあれですが)。
たとえばベートーヴェンの弦楽四重奏、どうしてもカルテットという形態に対して、何がおもしろいのかさっぱり分からなかった自分が四重奏をおもしろいと思えるようになったのは、ラヴェルとドビュッシーの四重奏と、アルバン・ベルク四重奏、そして吉田秀和の文章なのだ。流れとしては、まず二人の作曲家の曲があり、そして演奏者と批評家が同時に自分にそれを教えた形になっている、といってもその間にはかなり開きがあるが。そもそもなぜカルテットの良さが分からなかったかというと、簡単に言えば、自分が仲間はずれにされていたから。コントラバスをやっていた自分にはカルテットに触れる機会も無ければ、興味を持つきっかけもなかったのである。そもそもピアノの音があまり好きでは無いという理由でピアノ曲を聴かないなど、音楽の偏食が激しい自分としては、理由は後付けみたいなもので、きっと食わず嫌いか何かだったのだろう(最近ではピアノ曲も聴く、特にベートーヴェンの後期ソナタ)。
食わず嫌いというと、それは自分の一つの本性みたいなもので、偏見というかそういったものに対して人一倍反応する自分は、多分他の人の数倍は偏見を持っている。そういう偏りを治したいと思ったけれど、それがかなり微妙なバランスで、たぶんどこかに手を付けたら、とたん崩れてしまうので、やめた。だから、以前は受け付けなかったものを享受できるのは、偏見が無くなったからだというよりも、その数ある偏見の中で上手く処理できるようになったというのが正しい。そんなものなんだろうと思う、好きになるというのは。
自分が好きな作家や人物って言うのはある意味「頑固」な人が多い気がする。自分を曲げない人間、偏屈というのではなく。もしかしたら、丸谷さんも吉田さんも実際会ってみると付き合いづらい人たちなのかもしれない。といっても、話す機会は訪れることはないけれど。自分もそんな頑固さを持っていたいのだ、できれば。
ちくま文庫吉田秀和コレクションの中の「私の好きな曲」を読みながら、ベートーヴェンの四重奏曲を聴いて、思ったことを書いてみた。
2013年8月27日火曜日
「風立ちぬメモ」 その2
二郎と黒川は似ている。互いに飛行機に憑かれた人間。ただ違うのは、二郎が天才としたら、黒川は秀才、天才のしていることが分かりながらもそこに追いつけない。ライバルでありながら、二郎の仕事の最大の理解者。本庄は違う、彼は二郎の仕事を理解し切れていない、だからこそ彼独自の仕事が出来ている。
たとえば、はやぶさの取り付け金具が「二郎と考えたものと同じ」であったり、二人が同じ画面の中でストップウォッチを推す仕草を重ねたり、二人を対称的な位置に意図的に描いている。その中で二郎は、一歩ぬきんでていることを、描くことも忘れず。なにより主要人物の中で、黒川だけが二郎と同じ「眼鏡を掛けている」。
なぜ、二郎に婚約者がいると分かった時、彼は笑いながらも泣いたのか。同じ人間であるという安心から?
後半、黒川は自分の内に二郎を住まわせている。仲人もつとめている。ここでは黒川夫妻と二郎・菜穂子が対称的になる。ある意味では黒川夫妻の在り方は、二郎・菜穂子がたどれたもう一つの可能性に感じる。
映画の中では飛行機以上に汽車が重要な役割を果たしている。それは移動手段として、そして物語の「運び屋」として、何よりも時代を駆け抜けるというメタファーとして。
汽車は最初の夢から出てきている。二郎の夢の中で飛ぶ飛行機が打ち落とされて二郎が落ちていく中で汽車が走っている。
時間的な移動も汽車が行っている。この映画において、時間の経過表現がまったく観られないが、汽車に乗っているシーンがその経過を表わしていることに気付く。時間・空間の移動。
夢の中でも汽車は度々登場する。
最後に菜穂子を夢の王国に連れて行ったのも汽車だと言えるのでは無いか。
目の中の星は恋愛感情の表れと言える。お絹や菜穂子の目をよく見てみると、一つだった星(黒目に描かれた白い丸)が二つになるところでは、二郎に対する何かしらの感情を読み取ることが出来る、それは明らかに恋だ。一方二郎の目の星は最後まで一つのままである。唯一、夢の王国で菜穂子に「生きて」と言われた時に、その目には二つの星が浮ぶ。
たとえば、はやぶさの取り付け金具が「二郎と考えたものと同じ」であったり、二人が同じ画面の中でストップウォッチを推す仕草を重ねたり、二人を対称的な位置に意図的に描いている。その中で二郎は、一歩ぬきんでていることを、描くことも忘れず。なにより主要人物の中で、黒川だけが二郎と同じ「眼鏡を掛けている」。
なぜ、二郎に婚約者がいると分かった時、彼は笑いながらも泣いたのか。同じ人間であるという安心から?
後半、黒川は自分の内に二郎を住まわせている。仲人もつとめている。ここでは黒川夫妻と二郎・菜穂子が対称的になる。ある意味では黒川夫妻の在り方は、二郎・菜穂子がたどれたもう一つの可能性に感じる。
映画の中では飛行機以上に汽車が重要な役割を果たしている。それは移動手段として、そして物語の「運び屋」として、何よりも時代を駆け抜けるというメタファーとして。
汽車は最初の夢から出てきている。二郎の夢の中で飛ぶ飛行機が打ち落とされて二郎が落ちていく中で汽車が走っている。
時間的な移動も汽車が行っている。この映画において、時間の経過表現がまったく観られないが、汽車に乗っているシーンがその経過を表わしていることに気付く。時間・空間の移動。
夢の中でも汽車は度々登場する。
最後に菜穂子を夢の王国に連れて行ったのも汽車だと言えるのでは無いか。
目の中の星は恋愛感情の表れと言える。お絹や菜穂子の目をよく見てみると、一つだった星(黒目に描かれた白い丸)が二つになるところでは、二郎に対する何かしらの感情を読み取ることが出来る、それは明らかに恋だ。一方二郎の目の星は最後まで一つのままである。唯一、夢の王国で菜穂子に「生きて」と言われた時に、その目には二つの星が浮ぶ。
2013年8月11日日曜日
「風立ちぬ」メモ その1
・堀越二郎
宮崎作品の登場人物の中でも何を考えているのかが読めない。周りの人間に対する受け答えをどことなくぼんやりと受ける。
彼の行動原理はそもそも「美の追求」であり、その行動律に触れないものはことごとくぼやけるのである(まるで、眼鏡をかけないでみる近視の世界のように)。彼の美に対する焦点は常に定まっていて、ぶれることがほとんど無い。だが、その精確無比な焦点はごろごろと変化する世界を前に彼の歪みとしてあらわれる。一分の狂いも無い直線ほど自然の中で不自然なものはないのと同じだ。彼の行動は美を前にしては素早く、そして手際が良い。設計図を描き、計算尺を操る彼の手は無駄が無い。美を顕すものを前にしたら礼儀を忘れない、ユンカース博士を前にした彼は同僚の本庄より先に帽子を脱ぐ。
それでいて、少しでもそこから外れた物事に対する彼の愚鈍さはどうだろう。その動作は亀の歩みを擬する。上司や同僚の言葉も耳に入らない。どことなく、一手遅れている。例えば、婚儀のとき本来ならば黒川夫妻に礼を述べるのは夫である二郎の役割ではないだろうか。それなのに、彼は菜穂子が黒川夫妻に向かって感謝の辞を話すのを聞いて、初めてそれに気付いたように横に並ぶのである。
彼は天才である。天才であるが故の歪み。その歪みに誰もが惹かれている。
表情の乏しさ。感情の欠落。庵野秀明の声はまさにそのために必要だった。演技をしてはならない。まるで人形のような、しかし人形が人形であることを自覚していないような。
金持ちの家に生まれた、階級が上流の人間特有であるだろう、他者を考えることが出来ないという病。その病に無自覚な人間が、行う優しさ。それが受け入れられなかったときの困惑。子供らにシベリアを与えようとして逃げられたときの呆然とした姿。本庄に自分のアイディアを譲渡するが、「折角だが、これは使わん」と言われた時の表情。彼には、自分の行う好意がなぜ受け入れられないのかが分からない。震災のとき、おきぬを助けたときのように、自分のすることは感謝されて当然のはずなのに、と思わずに思っている。
彼は当たり前のように嘘をつく。それには悪気がまったく感じられない。特に心に残る嘘は何か。菜穂子に言う、初めて会った時から君のことが好きだった、という言葉。そんな訳は無い、彼はむしろ女中のおきぬに惚れていた。だからこそ、計算尺とシャツが大学に届けられた時、彼の想った人はおきぬであった。軽井沢で再び菜穂子と見えたとき、結局彼は菜穂子が名乗るまで気付かなかった。しかし、彼のいう言葉に矛盾があったとして、そこに悪意が微塵も感じられない。その残酷さ。
眼鏡をかけてみるということ。まさに言葉通りの、そして慣用句としての。彼は寝ている時でさえ眼鏡を外さない。眼鏡を外して眠るのは、最初とそして零戦の原型機が完成したときに菜穂子が外した、その二度だけだ。
2013年8月10日土曜日
カフカの翻訳 「街道の子供たち」 (観察より)
最近少しずつではあるが「観察」を翻訳している。
この小品は、すでに一ヶ月前には完成していた。
けれども、次がなかなか続かない。
ややこしい文章である。短いからこそ、文脈がとりづらい。ただ、どの文章もなんとなく突然はじまり、突然終わる印象がある。はじめて公に出たカフカ、ほとんど見向きもされなかったカフカ。
庭の柵に沿って馬車が走るのを聞き、微かに揺れる葉の間からそれを見た。暑い夏には車輪の軸やスポークの木があんなに鳴るんだな。畑から働き終わって帰ってくる人たちが笑っているけど、なんだかこっちが恥ずかしくなる。
両親の家の庭に生える樹々の中で、小さなブランコに座って休んでいるところだった。
柵の前が静かになることはない。子供らがつかの間、駆け足で去って行ったり、穀物の束の上に男女を乗せた馬車が花壇へと影を差すと、その辺りが薄暗くなったりする。夕方になるとステッキをもった一人の紳士がのんびり散歩をするし、そこへ互いに腕を絡ませた少女らが向かいあえば、彼女達は挨拶をしてわきの草むらへ退く。
鳥が飛沫のように舞い上がるのを目で追うと、一気に昇っていくように見えたので、鳥が昇った、ではなく、自分が落ちた、と思い、気付けばしっかりと綱を握り、ゆっくりと少しずつブランコを揺らし始めていた。しばらくして揺れが大きくなったときには、空気はもう冷たく吹いており、飛ぶ鳥に代わって震える星が姿を現した。
ろうそくの灯りのそばで夕食をとることにした。何度も両腕をテーブルの上へ投げ出してしまいながら、とっくに疲れてきっているけれども、バターパンを噛む。目の粗い透かしの入ったカーテンが暖かな風に膨らむと、ときおり表を通り過ぎつつ、それをつかみ取るのがいる。もっと顔をよく見て話をしたいと思ったのだろう。ろうそくは大抵すぐ消え、黒っぽいその煙のただようなかで、しばらく一群れの蚊が忙しく動き回っている。誰かが窓から声を掛けてきたなら、じっとみてしまうだろう。山々か、もしくは新鮮な空気の中で見る時と同じふうに、答えることも多くなく。
そのうち一人が窓枠を飛び越えて、もうみんな家の前にいるよ、と言うから、もちろん溜息をついて立ち上がった。
「ねえ、何でそんな溜息ついてるの。何があったの。何か特別な、けして良くならない不幸なことでも起きたの。もう立ち直れないの。本当に希望なんて全くなくなったの。」
希望が無いなんて、そんなことはなかった。家から走り出ていた。「もう、やっと来たね。」―「君はいつも遅れるんだから。」-「なんで僕だけ。」-「特に君だよ、来たくないなら、家に残ればいいのに。」-「そんな、ひどいよ。」-「ひどい、って。何言ってるの。」
頭で夜を突き抜けた。昼も夜も無い。歯のようにチョッキのボタンは擦れて鳴り、互いが互い、距離をとって走っていると、熱帯の動物のように口の中は火に溢れた。古き戦の騎士みたいに、足を踏み鳴らしながら外の高いところへ、互いにせっつきながら短い道を一度は下っていき、その勢いで足がもつれるのも構わず国道を駆け上がっていく。ひとりひとりが道の横溝を進み、暗い斜面を前に見えなくなったかと思うと、すでに見知らぬ人々のように畑道に立って、こちらを見下ろしている。
「降りてきなよ。」-「まずは昇ってこいよ。」-「突き落とす気なんだろう、やだよ、それくらい頭が回るんだから。」-「それに自分たちは臆病者だし、そう言いたいのかい。いいから来いって、来いってば。」-「なんだい本当に、君たち、君たちが突き落とそうって言うのなら、どんな目に遭わせてやろうか。」
突撃を仕掛けたら、胸を突かれ横溝の草の中に横になっていた。落ちたのだ、自分から。全てが同じくらい熱を持っている。草の中で、熱さも、肌寒さも残ってはいなくて、ただ、疲れてしまっている。
右の方に寝転び、手に頭を乗せれば、よく眠れそうだ。確かに頭を上げてもう一度起き上がりたいと思うんだろうけれど、その為にはもっと深い溝に落ちなきゃいけない。それから、大の字になり、足に斜めに吹く風を感じながら、この空に向かって身を投げ出したとして、それは結局、それ以上にもっと深い溝に落ちることになるだけだ。それでも、やめようとは思ったりしないだろう。
最後の溝にはまってもうただ眠るため目一杯に伸びをするかのように、特に膝をのばす、なんて思うまもなく横になる。泣きたくなって、病気の時みたく身体を仰向けにする。
月は幾らか昇り、一台の郵便馬車が光を浴びて通り過ぎる。弱くなってきた風がそこらを吹き上げるのを溝の中で感じ、近くで森がざわつきはじめる。そこにはもう、独りだ、ということしか無い。
「どこにいるの。」-「こっちだよ。」-「みんないるんだ。」-「隠れるなんて、無駄なことはやめなよ。」-「郵便馬車はもう行っちゃったのかな、知らない。」-「知らないなあ、行っちゃったの。」-「もちろん、君が寝てる間に、走ってったよ。」-「寝てたって、そんなの嘘だあ。」-「ま、静かにしてな。だってそう見えたんだ。」-「そんな。」-「行こうよ。」
一緒になって寄り添いながら走り、みんなが互いに手を取った。頭をあまり高くしないでいたが、それも道が下っていたからだ。誰かがインディアンみたいに鬨の声を上げた。脚を今までに無いくらいにギャロップにする。跳べば腰を持ち上げる風。誰も止めることは出来ない。それは走っている最中、追い抜く時に腕を組んだり、遠慮無く振り返って見たりできるほどだった。
渓流に架かった橋の上で立ち止まると、先の方へ行っていたのが、戻ってきた。まるで夜更けを感じさせないほど、水は石や木の根にぶつかる。それが理由というわけでは無いのだろうけど、誰かが欄干の上で飛び跳ねることは無かった。
茂みの後ろから遠く鉄道列車が走り来て、硝子窓が下ろされたその各席には灯りが点いていた。一人が流行りの歌を歌い始めると、みんな歌いたくなった。列車が行くよりずっと大声で歌い、それでも足りずに腕を振る。声を出しながら気の置けない集まりの中へ行く。声が別の声に混ざると、釣り針にひっかかったみたいだ。
だから歌った、森を背に、遠くの旅人の耳に届くように。大人たちは村でまだ起きていて、母親たちは夜のためにベッドを整える。
もうその時間だ。近くに立っていた子にキスをして、隣にいた子の三人にだけ握手をした。そして来た道を戻り始めた。誰も呼び止めはしなかった。姿が見えなくなったにちがいない最初の十字路で道を曲がり、畑道を通って再び森の中へ入った。南の町へ向かっていた。その町では村のことをこんな風に話していた。
「村にいる奴らってさ、眠らないらしいよ。」
「一体どうしてさ。」
「疲れないからさ。」
「なんでだよ。」
「馬鹿だからだよ。」
「馬鹿は疲れないの。」
「馬鹿が疲れるもんか。」
この小品は、すでに一ヶ月前には完成していた。
けれども、次がなかなか続かない。
ややこしい文章である。短いからこそ、文脈がとりづらい。ただ、どの文章もなんとなく突然はじまり、突然終わる印象がある。はじめて公に出たカフカ、ほとんど見向きもされなかったカフカ。
庭の柵に沿って馬車が走るのを聞き、微かに揺れる葉の間からそれを見た。暑い夏には車輪の軸やスポークの木があんなに鳴るんだな。畑から働き終わって帰ってくる人たちが笑っているけど、なんだかこっちが恥ずかしくなる。
両親の家の庭に生える樹々の中で、小さなブランコに座って休んでいるところだった。
柵の前が静かになることはない。子供らがつかの間、駆け足で去って行ったり、穀物の束の上に男女を乗せた馬車が花壇へと影を差すと、その辺りが薄暗くなったりする。夕方になるとステッキをもった一人の紳士がのんびり散歩をするし、そこへ互いに腕を絡ませた少女らが向かいあえば、彼女達は挨拶をしてわきの草むらへ退く。
鳥が飛沫のように舞い上がるのを目で追うと、一気に昇っていくように見えたので、鳥が昇った、ではなく、自分が落ちた、と思い、気付けばしっかりと綱を握り、ゆっくりと少しずつブランコを揺らし始めていた。しばらくして揺れが大きくなったときには、空気はもう冷たく吹いており、飛ぶ鳥に代わって震える星が姿を現した。
ろうそくの灯りのそばで夕食をとることにした。何度も両腕をテーブルの上へ投げ出してしまいながら、とっくに疲れてきっているけれども、バターパンを噛む。目の粗い透かしの入ったカーテンが暖かな風に膨らむと、ときおり表を通り過ぎつつ、それをつかみ取るのがいる。もっと顔をよく見て話をしたいと思ったのだろう。ろうそくは大抵すぐ消え、黒っぽいその煙のただようなかで、しばらく一群れの蚊が忙しく動き回っている。誰かが窓から声を掛けてきたなら、じっとみてしまうだろう。山々か、もしくは新鮮な空気の中で見る時と同じふうに、答えることも多くなく。
そのうち一人が窓枠を飛び越えて、もうみんな家の前にいるよ、と言うから、もちろん溜息をついて立ち上がった。
「ねえ、何でそんな溜息ついてるの。何があったの。何か特別な、けして良くならない不幸なことでも起きたの。もう立ち直れないの。本当に希望なんて全くなくなったの。」
希望が無いなんて、そんなことはなかった。家から走り出ていた。「もう、やっと来たね。」―「君はいつも遅れるんだから。」-「なんで僕だけ。」-「特に君だよ、来たくないなら、家に残ればいいのに。」-「そんな、ひどいよ。」-「ひどい、って。何言ってるの。」
頭で夜を突き抜けた。昼も夜も無い。歯のようにチョッキのボタンは擦れて鳴り、互いが互い、距離をとって走っていると、熱帯の動物のように口の中は火に溢れた。古き戦の騎士みたいに、足を踏み鳴らしながら外の高いところへ、互いにせっつきながら短い道を一度は下っていき、その勢いで足がもつれるのも構わず国道を駆け上がっていく。ひとりひとりが道の横溝を進み、暗い斜面を前に見えなくなったかと思うと、すでに見知らぬ人々のように畑道に立って、こちらを見下ろしている。
「降りてきなよ。」-「まずは昇ってこいよ。」-「突き落とす気なんだろう、やだよ、それくらい頭が回るんだから。」-「それに自分たちは臆病者だし、そう言いたいのかい。いいから来いって、来いってば。」-「なんだい本当に、君たち、君たちが突き落とそうって言うのなら、どんな目に遭わせてやろうか。」
突撃を仕掛けたら、胸を突かれ横溝の草の中に横になっていた。落ちたのだ、自分から。全てが同じくらい熱を持っている。草の中で、熱さも、肌寒さも残ってはいなくて、ただ、疲れてしまっている。
右の方に寝転び、手に頭を乗せれば、よく眠れそうだ。確かに頭を上げてもう一度起き上がりたいと思うんだろうけれど、その為にはもっと深い溝に落ちなきゃいけない。それから、大の字になり、足に斜めに吹く風を感じながら、この空に向かって身を投げ出したとして、それは結局、それ以上にもっと深い溝に落ちることになるだけだ。それでも、やめようとは思ったりしないだろう。
最後の溝にはまってもうただ眠るため目一杯に伸びをするかのように、特に膝をのばす、なんて思うまもなく横になる。泣きたくなって、病気の時みたく身体を仰向けにする。
月は幾らか昇り、一台の郵便馬車が光を浴びて通り過ぎる。弱くなってきた風がそこらを吹き上げるのを溝の中で感じ、近くで森がざわつきはじめる。そこにはもう、独りだ、ということしか無い。
「どこにいるの。」-「こっちだよ。」-「みんないるんだ。」-「隠れるなんて、無駄なことはやめなよ。」-「郵便馬車はもう行っちゃったのかな、知らない。」-「知らないなあ、行っちゃったの。」-「もちろん、君が寝てる間に、走ってったよ。」-「寝てたって、そんなの嘘だあ。」-「ま、静かにしてな。だってそう見えたんだ。」-「そんな。」-「行こうよ。」
一緒になって寄り添いながら走り、みんなが互いに手を取った。頭をあまり高くしないでいたが、それも道が下っていたからだ。誰かがインディアンみたいに鬨の声を上げた。脚を今までに無いくらいにギャロップにする。跳べば腰を持ち上げる風。誰も止めることは出来ない。それは走っている最中、追い抜く時に腕を組んだり、遠慮無く振り返って見たりできるほどだった。
渓流に架かった橋の上で立ち止まると、先の方へ行っていたのが、戻ってきた。まるで夜更けを感じさせないほど、水は石や木の根にぶつかる。それが理由というわけでは無いのだろうけど、誰かが欄干の上で飛び跳ねることは無かった。
茂みの後ろから遠く鉄道列車が走り来て、硝子窓が下ろされたその各席には灯りが点いていた。一人が流行りの歌を歌い始めると、みんな歌いたくなった。列車が行くよりずっと大声で歌い、それでも足りずに腕を振る。声を出しながら気の置けない集まりの中へ行く。声が別の声に混ざると、釣り針にひっかかったみたいだ。
だから歌った、森を背に、遠くの旅人の耳に届くように。大人たちは村でまだ起きていて、母親たちは夜のためにベッドを整える。
もうその時間だ。近くに立っていた子にキスをして、隣にいた子の三人にだけ握手をした。そして来た道を戻り始めた。誰も呼び止めはしなかった。姿が見えなくなったにちがいない最初の十字路で道を曲がり、畑道を通って再び森の中へ入った。南の町へ向かっていた。その町では村のことをこんな風に話していた。
「村にいる奴らってさ、眠らないらしいよ。」
「一体どうしてさ。」
「疲れないからさ。」
「なんでだよ。」
「馬鹿だからだよ。」
「馬鹿は疲れないの。」
「馬鹿が疲れるもんか。」
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