芥川賞のニュースが出たのを聞いて、W受賞やら何やらが話題になっているのを知ってもどうとも思わない自分が、朝吹という名前を見たとしても、また知らん名前だという風にしか思わなかった。しかし、その後、この人を調べたときに私は、しまった、とつい口走った。この人の本を一度手に取ったことを思い出したからだ。しかも出たばかりの頃に。
住んでいる近場ではいちばん大きな書店で本を探していたときに『流跡』が目にとまった。「ドゥマゴ賞」と「堀江敏幸」の名前が目について、ページを開いた気がする。一、二頁ほど繰って、面白いというか、また詩的なのが顕れたな、と考えつつ、今そんなに金がないから良いや、と弁解して買わなかった。
これは買うしかないと、買って読んだら、また、しまった、と呟いてしまった。先を越されたからである。
自分は小説を書くとき、一つのルールを自分に課した。それは「私」と書かない一人称視点の小説を作ろうと云うものだった。私は「私」が嫌いだった。日本語は別に「私」と書かなくても文章が書けるのだし、わざわざ書かなくても書けるのなら、ひとつ書いてみようと思ったからだ。
しかし、一度書き出してみると、如何に「私」という言葉が出しゃばってくるかが分かった。どうしても「私」が欲しくなるのである。そうこうして書こうとしても、ちぐはぐな文章となり、自分にはそれが向いていないのかもしれないと思って、そのルールを取っ払った。
そして、『流跡』を見てみれば、それが出来ているのだ、しかも当たり前かのように、自然と。
うらやましい、と思う。そして、彼女の言葉に驚く。
しかし、それでも、自分が『私』と書かない小説を書くとすれば、朝吹さんのようにはならないと思う。それは自分が朝吹さんのかくものよりももっと静謐なものを求めており、固く、揺らぎのない文章を求めているからだ。そしてそこには滑稽も含む。
見れば、同い年だという。悔しい、方向性が似ている、でも、似ているけれども、同じではない、まだ自分は書ける気がするという、どうしようもない負けん気を抱いて、昔書けなかった作品をまた書いてみたい気持ちを持った。
2011年1月22日土曜日
2011年1月10日月曜日
笹井宏之『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』
死という現象は作品にとっては付加価値となるのが、芸術のどろどろした側面とでもいいましょうか、例えば私が死にまして、なにやら作品集が出たら、死人に口なし、相手も死んだ野郎を悪く云うと体裁が悪いから何も言えなくなる、そんなんでええことばかり云ってもらえるのでしょうが、死ぬ前にちゃんとそんなことをしてくれるな、だめならだめと云ってくれ、と遺書に残しておきたいですね、というか、この言葉はすでに遺されているので、見た人はそう思っておいてください。
さて、いつものように近所の書店に行き、当てもない買い物をしていたとき、レジの前で平積みされている中に見つけたこの本を読んだとき、私はこころをぐいと持って行かれるような気持ちになった。痛いのである。その透明な言葉に私の欲していた世界を見出したからだ。
思わず、買ってしまったその本を、私は部屋で一人読んでいた。始めの一首がこれである。
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
思わず口ずさみたくなる言葉、この人の感性は私に近いのだと感じた。
そして、私は読み終わり、著者の略歴を見た。この人は二年前にインフルエンザで死んだのだということを知った。1982年であるから、今の自分と同い年である。
私は読み終わったときにこの『死』を目にした。だから、この気持ちに『死の装飾』は無い。むしろ、遺された言葉のみずみずしさは『死の装飾』をはじき返していることを知った。私にはまだこのような言葉のみずみずしさを手に入れることができないだろう。むしろ、石、そう化石である。土に埋もれた死体を掘り起こして、つなぎ合わせる作業しかまだ私には出来そうにない、みずからの生きた肉をそぎ落とし壁に貼り付ける行為をまだ恐れている。
(ひだりひだり 数えきれないひだりたちの君にもっとも近いひだりです)
ゆつくりと私は道を踏みはづす金木犀のかをりの中で
むかし、私もこのような言葉を使ってみようと、なまくらなナイフで私の鳩尾を突いてみたが、あまりに痛くて、どうしようもなく手から離れ落としてしまった。
さて、いつものように近所の書店に行き、当てもない買い物をしていたとき、レジの前で平積みされている中に見つけたこの本を読んだとき、私はこころをぐいと持って行かれるような気持ちになった。痛いのである。その透明な言葉に私の欲していた世界を見出したからだ。
思わず、買ってしまったその本を、私は部屋で一人読んでいた。始めの一首がこれである。
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
思わず口ずさみたくなる言葉、この人の感性は私に近いのだと感じた。
そして、私は読み終わり、著者の略歴を見た。この人は二年前にインフルエンザで死んだのだということを知った。1982年であるから、今の自分と同い年である。
私は読み終わったときにこの『死』を目にした。だから、この気持ちに『死の装飾』は無い。むしろ、遺された言葉のみずみずしさは『死の装飾』をはじき返していることを知った。私にはまだこのような言葉のみずみずしさを手に入れることができないだろう。むしろ、石、そう化石である。土に埋もれた死体を掘り起こして、つなぎ合わせる作業しかまだ私には出来そうにない、みずからの生きた肉をそぎ落とし壁に貼り付ける行為をまだ恐れている。
(ひだりひだり 数えきれないひだりたちの君にもっとも近いひだりです)
ゆつくりと私は道を踏みはづす金木犀のかをりの中で
むかし、私もこのような言葉を使ってみようと、なまくらなナイフで私の鳩尾を突いてみたが、あまりに痛くて、どうしようもなく手から離れ落としてしまった。
2011年1月7日金曜日
ベルンハルト『古典絵画の巨匠たち』
日本ではあまりにもベルンハルトがプッシュされない現実を嘆いて、皆さんにベルンハルトを読んでもらいたい、わたしは書き記す、なにゆえ彼は日本で受けないのか、むしろ彼の呪詛は日本人には馴染み深いはずであるのだ。しかし、と私は私に言う、その呪詛を受け取ろうとして彼の小説を読むと、途端文体が邪魔をする、と私は思った、この異様なまでの入り組んだ文章と、改行のなさ、彼はまったく改行をしないのである。すくなくとも、自伝五部と呼ばれる作品以降では。しかしそれは、と考えた、彼の内的独白と完全に寄り添って話された一つの祝詞、あるいは呪詞であるといえるだろう。その祝詞は「語られる」のではない、「書かれる」、その事実を私たちは真摯に受け取らねばならない。この作品の場合、「アッツバッハーは書き記す」という箇所がある。それによって、私たちはこの小説の自己完結性を享受することだろう、と思った、そしてそれにより私たちと彼の間の断絶を感じることだろう。私たちはその完結した世界の中で「語られる」のを「語る」人に「語られる」呪詛をその身に受けつづける様を見ることになる。呪詛の相手は彼のまわりの人々、つまりオーストリア人に向けられる、そしてそのオーストリア人を作り上げた国家、文化、宗教への執拗なまでの罵詈雑言、さらにはドイツ語圏という大きなくくりにまでその嫌悪が行き渡るのである。ベルンハルトの小説にはこの嫌悪の感覚が至る所に見られる、と私は私に言う、しかしそれはドイツ語で書かれ、何より彼ら登場人物もベルンハルト自身もオーストリア人である。呪詛は常に自分自身にも浴びせかけられている、この絶望を感じよ、と私は命令する、その呪詛をあなたも浴びよ、そして客席から舞台を見ていただけのその身を舞台上へ、舞台裏へ押しやるのだ、と私は私に言う。ベルンハルトは常に、安楽椅子に座る私たちを無理やりにでも立たせて、世界の舞台裏を覗かせようとするのである、とわたしは書き記す。
2011年1月3日月曜日
中勘助「銀の匙」
帰省の電車の中、一冊の本を読んでいた。今まで、読もう読もうと思っていてそのままにしておいた中勘助の『銀の匙』である。どうにも嫌いではないのだけれども、腰を落ち着けて読みたいとおもっていたら、忙しさや楽しさに紛れて、ずっと前に買ったにもかかわらず最初の十ページあたりでいつもやめてしまい、うちにある本の山(その名の通り)の中に紛れていたが、帰ったときに読むのを選ぶときに気まぐれにえらんでもってきたら、今の心境とあったのか、すっと読めた。
前半が良い。後半も悪くはないけれど、青年になってしまってはこの話は台無しの感はある。みんなが誉めそやしたせいで勉強する気を起こさずにきたために私は出来の悪い子のままで今まで来てしまったのだ、と家族を憎み泣きわめく場面が特に良い。なんと身勝手な、しかしそれだから子供なのだ、と思わなくもない。こういうある種の論理的な自己中心的態度というか、そういったのは意外に大人になっても残っているものだ。かくいう自分もこの気性が激しい方で、そうした態度を露わにすることがしょっちゅうである。しかし、大人になって慎みも覚えたので、自分の論理が可笑しいことくらいわかってもいる。そうした、内面のちぐはぐした場合の行動の滑稽さに、しばしば恥ずかしくなることもある。こうした気性は治らない、多分自分は治すつもりもない。
夏目漱石が褒めたというのは有名な話であるが、この『銀の匙』をどう読むかは少し迷う。小説、だろうか? どうもそう読めない。これはあくまで「散文」としてしか読むことのできないものだ。その「散文性」のためにこれを他の小説などと比べることができなくなってしまっている。小説を比べるなんてことはすでにナンセンスなのかもしれないが。
筋という筋のない短文の寄せ集めであるこの作品をつなげているものは何なのだろう、と考えてしまう。「銀の匙」というタイトルにある、その銀の匙は最初に登場したきりあとは姿を見せない。プルーストのプティト・マドレーヌと同様、記憶を呼び覚ますのにこんな素晴らしいものは無いのに、それを贅沢に使っている。そう、呼び覚まされた記憶。これはまさに中勘助の「失われた時を求めて」である。いや、プルーストは「失われた時を求めて」などと哲学的な詩的なタイトルにすべきではなかった。ただ、「プティト・マドレーヌ」と書けば良かったのだ。
前半が良い。後半も悪くはないけれど、青年になってしまってはこの話は台無しの感はある。みんなが誉めそやしたせいで勉強する気を起こさずにきたために私は出来の悪い子のままで今まで来てしまったのだ、と家族を憎み泣きわめく場面が特に良い。なんと身勝手な、しかしそれだから子供なのだ、と思わなくもない。こういうある種の論理的な自己中心的態度というか、そういったのは意外に大人になっても残っているものだ。かくいう自分もこの気性が激しい方で、そうした態度を露わにすることがしょっちゅうである。しかし、大人になって慎みも覚えたので、自分の論理が可笑しいことくらいわかってもいる。そうした、内面のちぐはぐした場合の行動の滑稽さに、しばしば恥ずかしくなることもある。こうした気性は治らない、多分自分は治すつもりもない。
夏目漱石が褒めたというのは有名な話であるが、この『銀の匙』をどう読むかは少し迷う。小説、だろうか? どうもそう読めない。これはあくまで「散文」としてしか読むことのできないものだ。その「散文性」のためにこれを他の小説などと比べることができなくなってしまっている。小説を比べるなんてことはすでにナンセンスなのかもしれないが。
筋という筋のない短文の寄せ集めであるこの作品をつなげているものは何なのだろう、と考えてしまう。「銀の匙」というタイトルにある、その銀の匙は最初に登場したきりあとは姿を見せない。プルーストのプティト・マドレーヌと同様、記憶を呼び覚ますのにこんな素晴らしいものは無いのに、それを贅沢に使っている。そう、呼び覚まされた記憶。これはまさに中勘助の「失われた時を求めて」である。いや、プルーストは「失われた時を求めて」などと哲学的な詩的なタイトルにすべきではなかった。ただ、「プティト・マドレーヌ」と書けば良かったのだ。
2010年10月2日土曜日
キンドル? キンドる!
・キンドルはおすすめ。
・目に優しいことの利点。
・私はこのように楽しんでいる。
通称kindle 3と呼ばれる電子書籍リーダーについては皆さんご存じだと思います。
しかし、アメリカ・アマゾンでのみ取り扱っている。日本の書籍には今のところ対応する予定が無いというところから、実物としていったいどんなものかを知っている人は少ないのではないでしょうか。
最初は自分も、そういう具合で、名前だけは知っている。ああ、なんかiPadの対抗馬として名前を挙げられている奴ね、くらいの認識でした。
そうした中、いろいろな情報を何となく拾っていたら、みるみるうちに欲しくなってしまいまして。
購入しちゃいました。
英語は高校時代ダメダメだった私がキンドルを初めて見た、というタイトルでも良かったのですが。
購入時の写真はアップできたらしてみようかと思います。
まず、驚いたのが、やはり画面ですね。
最初届いたとき、注意書きの書かれたフィルムでも貼ってあるのかと思ったら、あれ?これ、画面に写ってる・・・・・・、ええ!?ってな感じで驚きました。
すごい見やすいんですよね。これが。
この見やすさは実際見てもらわないと伝えづらいのですが、
まさに本って感じの文字感なんですよ。
・目に優しいことの利点。
・私はこのように楽しんでいる。
通称kindle 3と呼ばれる電子書籍リーダーについては皆さんご存じだと思います。
しかし、アメリカ・アマゾンでのみ取り扱っている。日本の書籍には今のところ対応する予定が無いというところから、実物としていったいどんなものかを知っている人は少ないのではないでしょうか。
最初は自分も、そういう具合で、名前だけは知っている。ああ、なんかiPadの対抗馬として名前を挙げられている奴ね、くらいの認識でした。
そうした中、いろいろな情報を何となく拾っていたら、みるみるうちに欲しくなってしまいまして。
購入しちゃいました。
英語は高校時代ダメダメだった私がキンドルを初めて見た、というタイトルでも良かったのですが。
購入時の写真はアップできたらしてみようかと思います。
まず、驚いたのが、やはり画面ですね。
最初届いたとき、注意書きの書かれたフィルムでも貼ってあるのかと思ったら、あれ?これ、画面に写ってる・・・・・・、ええ!?ってな感じで驚きました。
すごい見やすいんですよね。これが。
この見やすさは実際見てもらわないと伝えづらいのですが、
まさに本って感じの文字感なんですよ。
で、これこそが私がiPadと十分に対抗しうるものと確信出来た理由ですね。
本当に、長時間画面を見ても目が疲れないんです。
パソコンなどのほかの液晶と違って、画面自体の発光によって情報を得ていないからだということらしいですね。
私としては、今後洋書はこれでいいかな、という感じになりました。
そんな私は今、kindleで何をしているかというと、
ユーザーズ・ガイドをのんびり見ています。
結構これだけでも、英語の勉強になります。
あ、kindleには最初から英英辞書が搭載されていて、画面に出てくるカーソルを文字に合わせると意味が上や下にちろちろって出てきます。かなり便利。
ただ、英語初心者である私には、やはり英和辞典も欲しい。
ということで、探したら、ウェブ辞書でおなじみの英辞郎のkindle版があるという情報を入手。
早速入れてみました。1500円という値段も後押ししてくれましたし。
英辞郎の購入はここから:http://www.east-village.jp/miru-zeal/eijiro/
もちろん、次から何読もうかというのを探す楽しみも増えました。
とりあえず、優しい児童向けの本がグーテンベルクにあったので、
イソップ童話
ピーターパン
ドリトル先生
などをゲット。
さらに、ドイツ語のも入れてみようと云うことで、
アンデルセンのメルヒェンを入れてみました。
次に最終的にこれくらいは読みたいと云うものも入れようと思い、
J.ジョイス「ユリシーズ」
J.オースティン「高慢と偏見」
も入れてみました。読めるのはいつになることやら。
話は変わりますが、このように、何かをやるときは、とりあえずこれからという「はじめ」と、とりあえずここまでという「おわり」を最初に決めておくとやる気が起き、ステップはどのようにするか計画が立てやすくなると思います。
それでは、なにかkindle関係で面白いことが出来るようになったらまた書こうかなと思います。
2010年9月17日金曜日
差別をしない/させないために。
今回は、「差別をしない/させない」為にはどうするべきか、という問題を考えていきたいと思います。
ここで云う、差別とは「ある集団・個人を別の集団・個人と区別して、かつその人を精神的・肉体的に攻撃すること」を指します。単純に区別という場合は、攻撃するという意図を含みません。
さて、ここでひとつ大事なことは、「区別」という行為は、生きる上で必要な行為であり、人間であるために当たり前になってしまう、まさに人間の性(さが)とよべるものです。
ここら辺の話は難しいのではしょりますが、これは人間が言葉を使う上で仕方のないことだというのが理由になります。
重要なのは「誤解」と「錯覚」によって、区別が全体性をもち、ある感情が教育によってそこへと結びつくとき、差別が起こると云うことです。
皆さんがマイノリティであり、それによって不都合が生じていると仮定してみてください。なるべく、それをなくそうとか無くなってほしいと考えるのは普通のことだと思います。しかし、自分自身がもし差別をしてしまっているとしたらどうでしょうか? 人に無くしてほしいと願っても、自分がしていたら無くならないのは当然でしょう。
ああ、なんか説教くさい言い方になってしまった。こういう問題は、とにかくお説教などと結びつきやすいので、ちゃんと理屈をもって説明します。
例えば、「最近の若い者は」とか「女って」「男って」とか云う言葉は普段よく耳にすると思います。
でも、そういう言葉を言うときというのは、だいたい、一人や二人、あるいはグループが何かしているのを見たときじゃないでしょうか。
つまりこうしたことを言うとき、その人の頭の中には「個人=全体」が強く結びついているということです。
つまり、「あいつはだめだ」というよりも「最近の学生は駄目だ」といったりする。よく考えるとおかしいですよね。たとえ、その前に同じ光景を二三度見たからそう言ったのだとしても、たかが二三度でしかないのに、です。
これは、多分日本人が陥りやすい、「いい人に思われたい」という欲望が働くからです。
ある人は個人を攻撃すると、たとえその人たちが何の関係が無いことが分かっていても、その人の評価を下げます。関係あるなら、その人たちの関係が悪化します。そしてこのとき、関係ない人がこの光景をみると、だいたい攻撃した人に問題があると感じます。
で、だいたい「あいつは駄目だ」「最近の若い者は」などと言う人は「正義」をもってそうした発言をします。なにも、人から嫌われたいなどと思って言うのではないんですね。思っていても思わなくても「よくしたい(それは彼にとっての良いかもしれないし、社会全体にとっての良いかもしれません)」という気持ちで言うのです。
しかし、直接個人に対してそんなことを言っても仕方がない、個人にいちいち言ってもしょうがないからです、あるいはその人との関係が壊したいとも思わないからです。
こういう、ある意味「人を攻撃したい、でも自分は良い子でいたい」という気持ちが言葉をやわらげようと働きます。
つまり、個人の事ではなく、全体として話すのです。
これが「差別」のはじまりです。
では、いじめのような「差別」はどうなのか、というと、ある程度全体化し、人々に広まった差別は、今度は個人に適応されだすのです。
いじめの中にも、こうしたプロセスが見いだせます。
ある二三人がある一人を差別する、その差別が当たり前だと周りが認識する、さらに「差別される側」のグループにいると認識したほかの人をまた差別する、この繰り返しです。
こうしたことの根本にあるのは先ほども述べた「自分が良いことをしている」という考えです。
つまり、「正義」というものが不必要な「差別」をうむということです。
さて、気をつけたいのは、正義というのは自分が弱者の側であればあるほど強調してしまうことです。
そもそも正義という概念は弱者から生まれたモノです。
這い話が長くなりました。じゃあ、結局「差別はどうすればなくなるのか」。
私の答えは「良い子にならない」と言うことです。
そして、その人が悪いと思ったら、その人が悪いと正直に思うことです。事実を曲げることが悪いことだと「良い子」は気づくべきでしょう。
2010年9月10日金曜日
新しさとは「落ちつかなさ」である。
今回お話ししますのは、ある意味、哲学の本質は「驚き」である、といったプラトンPlaton、アリストテレスAristoteles、あるいはヴィトゲンシュタインL.Wittgenstein、といった哲学者が言ったような、本質論てきなものです。それが「正しい」かどうかの議論は別にして、私はこれを一つの軸にして考えを深めているというようなたぐいのそんなもの。
それは何かというと「新しさとは何だろう。」ということなのです。そしてその一つの答えとして、私は「それは『落ちつかなさ』なんじゃないだろうか。」と云いたいのです。
これは私の普段からの読書体験に由来するものです。
私は、読書をするとき二つの感覚が交差しているという感じをもっています。
一つは、自分の頭の中(心と云って良いかもしれません)が安定へと向かう感覚、もう一つは反対に不安定になっていく感覚です。具体的な作者で言うなら、高橋源一郎、保坂和志、長野まゆみ、丸谷才一、石川淳、夏目漱石、ヘルマン・ヘッセ、イマヌエル・カント、と云った方々は前者に当たり、青木淳吾、諏訪哲史、猫田道子、多和田葉子、赤染晶子、フランツ・カフカ、アンリ・ド・レニエ、ミシェル・フーコーといった方々の本が後者に当たります。
人によってはそれぞれの作家から得られる感覚はもしかしたら違うかもしれませんし、これは古典とか現代作品とか云った区別に当てはまるものでもありません。そして何より、私はこのどちらの方を好むと云う訳でもないのです。
しかし、やはり「新しさ」というのは現代に結びつきやすいのか、私の場合はやはり現代小説や現代思想の中に「不安定さ」をよく感じます。その不安定さはどこからくるのだろう、と考えてたところ、どうやらそれは作品そのものが、文字が「落ち着かない」「せかせかしている」というところからきているのではないかと、そう思うようになりました。
その「落ちつかなさ」は何も、文章の硬い・柔らかいではありません。論理的逸脱の加減でも無いような気がします。ましてや、突飛さやヘンテコさを持っているからでもないのです。
ただ単に「落ち着かない」、そういう感覚を得る本に対して私の頭(心)は不安定になっていく。
それを感じたとき、私はそれを良いか悪いかではなく、「新しい」と感じます。
そして、そうした作品を読んだ後と読む前では、シコウ(思考、嗜好、指向)が変化するのを感じるのです。
逆に頭(心)が安定へと向かう作品には「力」があります。この「力」という言葉も自分にはまだまとめ切れていないものを感じます。確かに「落ち着かない作品」にも力はあるのです。しかし頭(心)が安定へ向かおうとする作品群の「力」は「強さ」がある。この「強さ」という概念を誤解しないでほしい。
なぜなら、けして「強い」ものが「弱い」ものより強い訳ではないからです。その「強さ」というのは、人によっては「一本気のある」「筋の通った」というような言葉で表現するようなものだと思います。しかし、それが絶対的な優位を有していると考える人はいないのではないでしょうか。私はそういった感覚を松岡正剛の「フラジャイル」に影響を受けて考えています。
話がそれそうなので元に戻しますと、そういう「力」ある作品群は読むと私たちに活力を与えてくれますし、感情を強化してくれます。どっしりと腰を据えて物事を見るような気分にさせてくれるのです。
こうしたことが優位に運べば今云ったような効用が出てきますが、劣位に回ると「落ち着かない作品」は不安やいらだちを生み、「力ある作品」はかたくなさや頑固さを生むでしょう。
私はどちらも重要だと思うのですが、常に「新しさ」を得るということの重要性と危険を常々感じている。やはりバランスの問題だと思うのです。
いつかこういう考え方も新しくなくなる日が来るでしょう、というかもう来ているのかもしれません。
しかしたとえそうだとしても、私としては「温故知新」の言葉を頭の額に飾って本を読むという行為を続けるだけです。そして、今まで私じしん「新しくない」と感じていたものに「新しさ」を見つけたとき、喜びを見いだすかもしれません。
なんだかとりとめの無い話になってしまいました。
今日はここまででとどめておきましょう。多分、私じしんの中でこの考えが「新しく」「不安定」であるからこのような調子になってしまうのかもしれません。
それでは。
それは何かというと「新しさとは何だろう。」ということなのです。そしてその一つの答えとして、私は「それは『落ちつかなさ』なんじゃないだろうか。」と云いたいのです。
これは私の普段からの読書体験に由来するものです。
私は、読書をするとき二つの感覚が交差しているという感じをもっています。
一つは、自分の頭の中(心と云って良いかもしれません)が安定へと向かう感覚、もう一つは反対に不安定になっていく感覚です。具体的な作者で言うなら、高橋源一郎、保坂和志、長野まゆみ、丸谷才一、石川淳、夏目漱石、ヘルマン・ヘッセ、イマヌエル・カント、と云った方々は前者に当たり、青木淳吾、諏訪哲史、猫田道子、多和田葉子、赤染晶子、フランツ・カフカ、アンリ・ド・レニエ、ミシェル・フーコーといった方々の本が後者に当たります。
人によってはそれぞれの作家から得られる感覚はもしかしたら違うかもしれませんし、これは古典とか現代作品とか云った区別に当てはまるものでもありません。そして何より、私はこのどちらの方を好むと云う訳でもないのです。
しかし、やはり「新しさ」というのは現代に結びつきやすいのか、私の場合はやはり現代小説や現代思想の中に「不安定さ」をよく感じます。その不安定さはどこからくるのだろう、と考えてたところ、どうやらそれは作品そのものが、文字が「落ち着かない」「せかせかしている」というところからきているのではないかと、そう思うようになりました。
その「落ちつかなさ」は何も、文章の硬い・柔らかいではありません。論理的逸脱の加減でも無いような気がします。ましてや、突飛さやヘンテコさを持っているからでもないのです。
ただ単に「落ち着かない」、そういう感覚を得る本に対して私の頭(心)は不安定になっていく。
それを感じたとき、私はそれを良いか悪いかではなく、「新しい」と感じます。
そして、そうした作品を読んだ後と読む前では、シコウ(思考、嗜好、指向)が変化するのを感じるのです。
逆に頭(心)が安定へと向かう作品には「力」があります。この「力」という言葉も自分にはまだまとめ切れていないものを感じます。確かに「落ち着かない作品」にも力はあるのです。しかし頭(心)が安定へ向かおうとする作品群の「力」は「強さ」がある。この「強さ」という概念を誤解しないでほしい。
なぜなら、けして「強い」ものが「弱い」ものより強い訳ではないからです。その「強さ」というのは、人によっては「一本気のある」「筋の通った」というような言葉で表現するようなものだと思います。しかし、それが絶対的な優位を有していると考える人はいないのではないでしょうか。私はそういった感覚を松岡正剛の「フラジャイル」に影響を受けて考えています。
話がそれそうなので元に戻しますと、そういう「力」ある作品群は読むと私たちに活力を与えてくれますし、感情を強化してくれます。どっしりと腰を据えて物事を見るような気分にさせてくれるのです。
こうしたことが優位に運べば今云ったような効用が出てきますが、劣位に回ると「落ち着かない作品」は不安やいらだちを生み、「力ある作品」はかたくなさや頑固さを生むでしょう。
私はどちらも重要だと思うのですが、常に「新しさ」を得るということの重要性と危険を常々感じている。やはりバランスの問題だと思うのです。
いつかこういう考え方も新しくなくなる日が来るでしょう、というかもう来ているのかもしれません。
しかしたとえそうだとしても、私としては「温故知新」の言葉を頭の額に飾って本を読むという行為を続けるだけです。そして、今まで私じしん「新しくない」と感じていたものに「新しさ」を見つけたとき、喜びを見いだすかもしれません。
なんだかとりとめの無い話になってしまいました。
今日はここまででとどめておきましょう。多分、私じしんの中でこの考えが「新しく」「不安定」であるからこのような調子になってしまうのかもしれません。
それでは。
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