2012年9月8日土曜日
大和言葉は私にいかなる思想を生やすのか
私ののどが母音の多い言葉によって響く
脳が心地よく揺すぶられ時折口を閉じると鼻音が鼻から抜けていく
が
それも邪魔がはいる
思想を語る言葉
内面というものを語る言葉
無意識というものを語る言葉
それらはどれも
ゆめも
うつつも語りはしない
借り物の言葉ばかり
狩られるのは私ののど
息苦しさにあえぐその声は
母音を含んではいても
私を心地よくはしてくれない
2012年9月3日月曜日
夏の歌
古今和歌集を読むと、夏の歌は三十二首、全ての題の中でもっとも少ないのは、そもそも夏という季節が日本人にとって雅ではなかったことをあらわしているのかもしれない。
ただ、次第に文化が「雅」から「俗」へと性格を変えるにつれて、夏というものは文化的にもその位置を高めていったと考えられる。
それは、たとえば芭蕉の「しづけさや」の句でも良いし、サザンやTUBEの歌でも良いかも知れない。
そもそもなぜ「雅」にとって、夏は忌むものなのだろうか。
考える視点をあげてみれば、例えば夏は生ものが傷みやすい所から「腐り/死」をもたらすものだからともいえる。これは「雅/聖/生」として見る視点から。夏が死に近いというのは「お盆」という行事からも考えることは可能だ。
こうしたことはかなりこじつけも含まれるが、ただこうした何気ないつながりを考えることは、隠されているものを表に出す際には重要であることは、フロイトが示してくれている。
しかし、別の点から考えれば、夏はもっとも生と死が近づく季節であるとも言える。その暑さは體の熱さでもあり繁茂する植物に見るように、生命がもっとも活動するという表をひっくり返すと死へと近づくエネルギーがもっとも盛んであるということでもある。
そんな此岸と彼岸の境にもっとも近づく季節である夏は、日本人にとっては「非人間的=非雅的」な季節なのかもしれない。
2012年8月29日水曜日
書くこととフロイトの無意識の構造
先日、大学にふらりと行くと研究会が開かれていて聞くことになった。
発表したのは、今は京大の院にいる研究室OB。
内容はインゲボルク・バッハマンとシェイクスピアというもので、詩人であるバッハマンの一つの詩がシェイクスピアの作品と関係した語彙や技法を使用していることに言及し、そうしたものに隠れていったものを示唆していった。
バッハマンもシェイクスピアも囓る程度でまったく深くは知らない自分にとって今回の発表は、「生成論」としてとても面白く聞けた。
取り上げられたバッハマンの詩「ボヘミアは海辺にある」は完成までに九つの稿があり、初稿と比べると完成稿はかなり形の違うものとなっている。
発表者曰く、初稿の段階にバッハマンが詩に込めていたものはシェイクスピアの引用によって「覆い隠され」ている。
ここからは、自分の考えたこと。
発表者に質問をしてみると、バッハマンがこの詩を書いた時期の遺稿を読むと、かなり詩に手を加えており、いわゆる天才型の詩人とは違うとのこと。
自分にはそれが、書く行為への欲望が書く内容へのそれを上回っている、という風な印象をもった。それはカフカの作法を知ったときとおなじ印象だ。
こうした「何度も同じものについて書く」ということに対して、フロイトの「抑圧」概念との近さを思い浮かべるのはたやすい。「書きたかったこと」が「書くこと」を繰り返すうちに「書かれたもの」と乖離していく。そうしたプロセスがフロイトの意識/無意識の関係を想起させる。そして、自分はそれに親近感というか、得心というか、なんとなくではあるが、そうだなあ、という気になるのだ。
ひとつにはそれが自分の体験として、わかる、からなのかもしれない。未だに完成しない小説があるのだけれど、たびたび最初から書いていく内に、最初書いた時にこの小説の中で込めようとした(込めようとされていた?)ものがどんどんと見えなくなっていく。書きたいことから書くことへ重心がずれていく感覚、それは反物語的な感覚だと思うし、一方で非常に物語的な感覚だといえる。バルトの言う「快楽」は読むことの「快楽」であったけれども、それと同じような書くことの快楽の体験がそこにある。
では、その体験とフロイトの抑圧構造はどういう関係が見いだせるのかは考えがまだまとまらない。
もう少し考えて見たいとおもう。
2012年8月7日火曜日
記憶の音楽棚
吉田健一の『書架記』という本がある。今でも中公文庫で買える。
内容は戦争で灼けてしまった青春時代の本を思い返すという体裁の書評で、執筆時に筆者がその本を持っていないというところが面白いと思った。もちろん別の本で読んだのかもしれないがほとんどは記憶で書いているところに記憶という洗練/美化/脚色を被る書物の唯一性がそこにある。
同じ事をしても面白いとは思わないので、自分は音楽でそういうものが無いかを思い返してみる。
・タン・ドゥン作曲 オペラ「Tea ~茶経異聞~」
中国の現代作曲家である、タン・ドゥンのつくったオペラ。グリーン・レクイエムという日本でも流行った映画の音楽も作っているから、もしかしたら彼の音楽は聴いたことがあるかもしれない。
自分はこの音楽をNHKの芸術番組で観た。ビデオに録ったが今ではビデオを観ることが出来ず、カセットも多分かなり痛んでいることだろう。
内容は茶の秘伝「茶経」を巡る日本の皇子と唐の皇女の悲恋。
物語は簡素だが、台本は難解。禅的な思想が繰り広げられる。
音楽が良い。アジアの声唱法がふんだんに使われているのに、西洋音楽とぶつからずに調和している。それがタン・ドゥンのききどころでもある。
もう一つの特徴は、舞台効果と音楽の融合。舞台上に三人の打楽器奏者がいて彼らの演奏=舞台演出となっている。
とくに印象的なのは、天井から垂れ下がる紙。それを彼女達(打楽器奏者は全員女性。衣装も着ており、天女のように舞台を「舞う」)は撥で叩いたり、或いはゆすったりして音を奏でる。
場面ごとに中心となる楽器が場の名前となっている。「水」「紙」「陶器」など考えると、こうしたものは「茶」に結びついているとも考えられる。
たぶん、私にとってのオリエンタリズムの憧憬はここから始まっているような気がする。
2012年7月27日金曜日
哲学って何?ともし高校生あたりに聞かれたら、まず言おうと思うこと。
哲学って、何?
って考えたことがありますか?
カントやヘーゲル、マルクスやハイデッガーとか色々な哲学者がいて、みんな小難しいこと言ってるんですけど。
だから、みんな敬遠してしまいがちなんだとおもうんです。
それは、多分哲学が何を目指しているかが分からないからなんだとおもうんですよね。
じゃあ、哲学って何を目指しているのかというと、
「いまこうやって生きている私がいなくなっても、ずっとありつづけるものって何だろう?」に答えを出す
ってことなんです。
で、そういうことを目指すんじゃなくて、
「今生きている私にとって○○はこんな意味なんだ。」
に向かうのは哲学じゃなくて「思想」なんです。
だから、今は哲学者はほとんどいなくて思想家が多い。
フロイトなんかはある意味「思想家」なんです。
彼は、私にとって「心」とはこういうものなんだということを語っている。
いま、頭が良いと言われている人がよく引き合いに出してくる、
フーコーやデリダ、バルトみたいな人たちはあくまでその人たちにとっての『世界』を語っているってことを忘れちゃ行けない。それを『哲学』として見ると、どうしても見方がずれると思うんです。哲学があくまで厳密な学問としてあるとすれば、思想はそうじゃない。そして、そうじゃないからこそ、思想は読む価値があるんじゃないかと僕はそうおもいます。
2012年7月7日土曜日
ぼくのプロポ 003
○
ぼくはただ当たり前のことを書くだけなのだ、正確な筆記を以て。
その当たり前を読まない人は、ただ踊り、歌い、食物を食い、眠りを貪り、己の享楽をのみ大事としている。残念でならない、彼らのために書いた文章はすべて、彼らの尻の下に敷かれ、その汗で滲んでいる。
○
何を求めているのか、知らない。高い塔の上で書物に囲まれ生きる老隠者のように、ひっそりと、黙々と、知識を得る人よ。知識は、死と同時に消滅する。何のために知を得るか。
○
一人の狙撃手のように。言葉を狙い撃つ。若々しいのも、老いたのも、狙撃手の前では同等、そこには生か死のどちらかしかない。死の宣告もなく、殺される言葉はなるべくしてなったのか、はたまた偶然か。
○
どうしても生活のレベルというものは下げにくいもの。例えそれが、100円のお菓子を買わないことでも。「いままで」が「これから」と結びついてこそ「今」があるのだという、人間の無意識な生き方がそうさせるのかもしれない。如何に100円のお菓子を買うことと買わないことを結びつけるか、それが問題です。
○
問は答えを選ばせる。問われた私たちは答えの選択を迫られる。その時の態度が私である。私たちは問うことばかり考える、問われなければならない。まなざすのではなく、まなざされること。まなざしかえすこと、時に逃げること。私がその中にいる。
ぼくはただ当たり前のことを書くだけなのだ、正確な筆記を以て。
その当たり前を読まない人は、ただ踊り、歌い、食物を食い、眠りを貪り、己の享楽をのみ大事としている。残念でならない、彼らのために書いた文章はすべて、彼らの尻の下に敷かれ、その汗で滲んでいる。
○
何を求めているのか、知らない。高い塔の上で書物に囲まれ生きる老隠者のように、ひっそりと、黙々と、知識を得る人よ。知識は、死と同時に消滅する。何のために知を得るか。
○
一人の狙撃手のように。言葉を狙い撃つ。若々しいのも、老いたのも、狙撃手の前では同等、そこには生か死のどちらかしかない。死の宣告もなく、殺される言葉はなるべくしてなったのか、はたまた偶然か。
○
どうしても生活のレベルというものは下げにくいもの。例えそれが、100円のお菓子を買わないことでも。「いままで」が「これから」と結びついてこそ「今」があるのだという、人間の無意識な生き方がそうさせるのかもしれない。如何に100円のお菓子を買うことと買わないことを結びつけるか、それが問題です。
○
問は答えを選ばせる。問われた私たちは答えの選択を迫られる。その時の態度が私である。私たちは問うことばかり考える、問われなければならない。まなざすのではなく、まなざされること。まなざしかえすこと、時に逃げること。私がその中にいる。
短文「停滞の日」
怠惰とは違う停滞を味わいながら、人に文句の云われない程度の酒をたしなんでいた。酒の表面にほこりのように積もるそれのせいで中々呑みこめない、そんな日だった。普段は氷を入れるグラスもその日は入れず、とろとろとした温みを含んだ液体を胃に流しこもうとすると、粘り気のあるみたいに入っていかない。それもこれもこの停滞のせい、すべてはそう……、とその時は考えていた。
苦しい、と云う訳ではなく、ただ、ただ、何もない、本当に、と自問しても、返ってくるのは、本当に。自分の心がそう思っているのだ、いくら聞いても答えは同じに決まっている、変化のない自分と自分の問答、はなから質問なんてこれしかない、本当に。
もうたいくつかすらも分からない。全てのことから自分を切り離して、残るものが自分ではなく、たいくつであるなら、自分こそがたいくつなのだから、たいくつを感じると云うのは、自分を感じることであり、結局たいくつが自分であり続ける以上、そこにあるたいくつは自分。手にもったグラスも、中にある酒も、たいくつであり、自分だ。そんな考えがぐるりぐるりとまわった。
苦しい、と云う訳ではなく、ただ、ただ、何もない、本当に、と自問しても、返ってくるのは、本当に。自分の心がそう思っているのだ、いくら聞いても答えは同じに決まっている、変化のない自分と自分の問答、はなから質問なんてこれしかない、本当に。
もうたいくつかすらも分からない。全てのことから自分を切り離して、残るものが自分ではなく、たいくつであるなら、自分こそがたいくつなのだから、たいくつを感じると云うのは、自分を感じることであり、結局たいくつが自分であり続ける以上、そこにあるたいくつは自分。手にもったグラスも、中にある酒も、たいくつであり、自分だ。そんな考えがぐるりぐるりとまわった。
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