2013年6月13日木曜日

カフカ風散文 その1

 僕は歩き続ける。僕を残していくのを忘れず。何か目的地があるわけでは無く、そこにたどり着くべき場所があるわけでは無く、さらにはどこかから始めたというのでも無い。あると確実に言うことが出来るのは、歩いている僕と、残った僕だ。もう少し正確に云うべきだろう、この大地を確実に一歩一歩蹴っているという決定的な感覚を持っているのが他でも無い僕であるという確信があるし、そして僕が離れていき着実に小さくなっていくということを立ち尽くしながら考えている瞬間がある。何千という夜の、また次の夜が過ぎ、僕はもう蚤の目に入った埃よりも小さくなってしまっても、なお、まだ小さくなっていく。とつぜん、めまいに襲われて僕は地面に膝をついた。歩き疲れたからか、じっとしていることに疲れたからか、もう僕には分からない。それは、向こうにいる、小さくなってしまった僕がどうなったのか分からないのと同じ事だ。ただ、分かっているのは、実は、大地は天動説を口にする人々によって円盤のように平らかであり、どこまで行っても終わりなどないということだ。

2013年4月29日月曜日

ロベルト・ヴァルザーの詩「事務所にて」


 つくるということが最近はできないでいる。 
 やることといったらつくりかえることくらい。 
 それも必要にせまられてではなく、 
 必要を感じるためにつくりかえる。 


 「事務所にて」 

 月が僕らを見る、 
 彼にとって僕はみじめな雇われでしかない、 
 雇い主の厳しい目にやつれた 
 みじめな雇われでしかない。 
 いごこちわるく首を掻く。 
 生きるという陽の光を浴び続けるなんて 
 僕には出来そうもない。 
 足りないということが僕にはふさわしい、 
 それが雇い主に見られながら 
 首を掻くしかないということ。 

 月は夜の傷。 
 血の雫は全て星。 
 例え輝かしい幸福からはとおくとも、 
 おこぼれくらいはもらえるのだ。 
 月は夜の傷。 
 

2013年4月8日月曜日

役目が終わる。

 あらゆることには始まりがあり、終わりがある。男の役目もそろそろ終わりを迎える。このことを男はうすぼんやりとだが気付いており、だからといって何もするわけではないが、それでも終わるのはいつなのだろうかと考えている。そもそも彼にとって、その役目を背負うことになったのは本当に偶然のことであった。それが彼でなければならないとは、誰も思っていなかったに違いない、当の彼自身さえそう思っていた。しかし、彼はその役目を引き受けた以上、役目を果たすことに尽くした。別に特別なことは何もなく、彼は彼の以前の生活をなんら変える必要はなかった。それでもその中に役目があり、役目を負っているという考えが彼の生活には満ちたのだった。そのせいで彼は最初、自分の生活がまるきり変わってしまうのではないかと恐れた。それは杞憂に終わった。何も変わらずに、以前の生活を続けながら彼はその役目を担った。ある時、男は友人に向かって、俺は今やらなきゃいけないことを任されているんだと云ったことがある。友人は無関心そうに、ただ友人としての優しさを以て聞いた。ふうん、それはどんなことなんだい。男は何も答えることが出来なかった。さて、ある日、彼はいつ終わるともしれない自分の役目が一体どんなふうに終わるのかを想像していた。そしてこの役目を任された時のことを思い出そうとした。しかし、それがいつのことだったか、そもそもどのようにして任されたのか、思い出せなかった。男は友人に、僕は君に、役目を任されたことを云ったと思うのだけど、あれはいつだったっけ、と聞いた。しかし友人から返ってきた応えは、そんなことを云ったことあったか、だった。それを聞いた時には、男の役目はすでに終わっていた。だが、男はふたたび役目がいつ終わるのかを考えていた。

ロベルト・ヴァルザーの詩 「傍らに」「怯え」「いつものやうに」


 傍らに 

 ぼくはひと歩きする。 
 それほどでもない距離を遠回りして、 
 家まで。そのとき響きはなく、 
 言葉もなくぼくは傍らにいる。 


 怯え 

 ぼくはとても長い間待つてゐた、甘い、 
 調べと挨拶、ひとつの響きだけを。 
 今ぼくは怯えてゐる。調べでも響きでもなく、 
 霧だけが濛々と立ちこめ迫つてくる。 
 ひつそりと暗やみにまぎれ歌つたもの、 
 ぼくの心を和らげてほしい、悲しみよ、今では陰鬱な歩み。 


 いつものやうに 

 ランプはまだそこにあるし、 
 机もまだそこにある、 
 ぼくはまだ部屋にゐて、 
 ぼくのあこがれは、ああ、 
 まだいつものやうに溜息をついてゐる。 

 臆病、君はまだそこにゐる? 
 それから、嘘、君も? 
 ぼくはあいまいな肯定の返事を聞く。 
 不幸がまだそこにゐる。 
 そしてぼくは、まだ部屋にゐる、 
 いつものやうに。

2013年3月26日火曜日

ロベルト・ヴァルザーの詩 「雪」


カフカや、現代の数多くの作家が愛するスイスの作家ロベルト・ヴァルザー。 
読んでみて思ったのは、もしかしたらカフカより好きかもしれない、という期待。 
カフカはあまりに自分と同化してしまいその姿を見ることができない、いわば僕の目がカフカの目であるよう。 
それに比べてヴァルザーは確かにそこにいる、その姿を見ることができる。 



 「雪」 

 雪がふる、雪がふる、大地を覆ふ 
 白い苦しみを伴つて、ずつと遠く、遠くまで。 

 痛みに空からひらひらと落ちる、 
 綿のやうなもの、雪だ、雪だ。 

 それが君にくれるのは、あゝ、ひとつの安らぎ、ひとつの広がり、 
 雪に埋もれた世界がぼくを弱くさせる。 

 だからこそ最初は小さかつたのに、段々大きくなる憧れが 
 涙を求めてぼくの中へと押し入つてくる。 


2013年3月16日土曜日

(僕は教養主義者でも、原理主義者でも無いが……)


 僕は教養主義者でも、原理主義者でも無いが、いわゆる「古典」というものを大事にする人間だという自覚はある。だからこそ、小説は自分が好きなものだけ読めば良いじゃ無いか、絵や映画も好きなものを観れば良いじゃ無いかと思っているのに出会うと、なんだかなあ、と思う。それは、あまりに自分がそれを好きだということに無自覚だし、あえて人が良いと思うものごとを避けて自分を自分たらしめたいだけではないかと考えてしまう。簡単に言えば、自分が自分である、ということをそうした小説や絵や映画なんかを使って証明したいだけなのであって、実はそれらのものに対して感じることも少ないのでは無いかと疑ってしまう。ただ、大体においてこの疑いが晴れることは無いのだけれど。

 日本にいて、特に原書で本を読もうとしないのであれば、そうした自分づくりは大したことがないんじゃないだろうか。どんな本でも、翻訳を読むと云うことは、すでに認められたものを読むことであり、誰かの目や耳や手を通しているのだから、それでいくら自分づくりをしたって、ぼろぼろくずれる砂の自分にしかならない。
 原書を読めというのではなく、自分づくりに利用するなということ。
 日本の批評、批評と大層な名前を付けなくても何かを評価することに今ではいつでも誰かのものに触れている。それは140文字であったり、ホームページの一コンテンツを成り立たせるくらいであったり様々だけれども、amazonのレビューでも良い、見て思うのは、「好き嫌い」以上のことが書かれていないこと、特に「嫌い」はただの「嫌い」以上を伝えてこないことだ。
 他の国でもそうなのかもしれない、日本だけと云う風に見るのは早急だろうが、もしこれが世界的な現象なら、なんと言葉の貧相で、貧弱で、血の通わない、文章しか無いのだろう。
 「古典」を読まないというのはそういう文章で満足することだ。
 語るだけ語り、何も受け取らないのであれば、その言葉は栄養失調なのだ。だけどそれすら気付いていない、言語の拒食症に陥っている人々は言葉を消化できず、詰め込んで吐いている。そう、ただ吐き出している。つまり嘔吐物をまき散らされて、さらに人々はその嘔吐物を食らい、また嘔吐する、そんな言葉の吐瀉に晒されてなお平気でいる神経が出来上がってしまっているのだ。
 つまり、消化した残りかすでもない。糞便ですらない。

 そんなスカトロジーが御免である私が目指すものは、カニバリズムなのでしょう。異常であることに変わりはないのだけれど。
 言葉のカニバリズムに快楽を覚える必要がある。

2013年3月10日日曜日

カフカの翻訳







 久しぶりの翻訳。本当は「ポセイドンは事務机に座り……」を訳したけれど、もう少し「配置をただしたい」。 
 というわけで、フィッシャーから出ている「批判版作品集」の「遺稿」で一番始めに載っているものを。 





 行き来がある。  別れがあるが、再会は、いつも無い。  プラハ、霜月20日。 フランツ・カフカ