2011年5月11日水曜日

最近の読書事情。

詠むものが少し、方向転換したような気がする。 

どうしてもということから、日本の古典をさらっている。古今集などもちらちら読むようになった。 
ドナルド・キーンの日本文学史を原著で購入。ちょっと後悔。 
でも、日本語だと18巻になるところ(しかも、今は売ってない。文庫化がどんどんされているけれど)が、四巻ですむからスペース的にはエコだ。(と思ったが、結局文庫版は購入しているので、どっこいどっこいになりそうな予感) 

ただ英語だと、知っていることも、何のことだか分からない場合が出てくる。 
例えば、一番最初の前書きにでてくる引用。 


Xian ji was filled with wrath at Hongmei; 
Load Pei, bent and bowed, came to pay him homage. 
Fan Zeng plotted harm, but was refused. 
Secretly handing over his sword, he made a pact with Zhuang. 

Wen Hsuanという中国の文集からどうこうと書かれており、なんじゃこりゃ、と思っていたら。高校の教科書にも載っている有名なエピソードでありました。(普段なら拙訳をのせるところですが、突然出てきたときのわたしの狼狽えを共感して欲しいので、あえての省略) 

また、紀貫之の古今集仮名序の冒頭「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」なども、 

Japanese poetry has its seeds in the human heart and burgeons into many different kinds of leaves of words. 

となっていて面白い。最近では、わざわざウェイリー訳の源氏物語を日本語に再訳していたりもしますから、こういうのを読むのはあるいみ、外国の日本古典受容の如何をみるものであると同時に、日本語と外国語の間を往復し、内容のみを残す(言葉を削いで意味を残すような)作業はある意味、言葉に立ち止まる良い機会になっています。 

そんなこんなで内には、ずいぶん洋書もそろいました。 
芥川や夏目漱石の『三四郎』のドイツ語訳なんかも買ってしまった・・・・・・。 


いっぽう、和書は何を読んでいるかと言いますと、めっぽう今は「須賀敦子全集」と「抄訳版 失われた時を求めて(鈴木道彦訳)」を読んでいます。 
須賀敦子さんは、もう亡くなられたイタリア文学の翻訳者。知り合いがいぜん読んでいたというのも実は動機であるのですが、そのとき買っていたものにようやく手をつけている次第。いやあ、なぜ早く読まなかったのだろうと、後悔していますが、むしろ、今だからこそこうやって心に響いているのだと思うようにしました。そして、イタリアに嵌っていくという、イタリア語の語学書なんか買いあさったという・・・・・・。 
そして、キーンの日本文学史とは真逆に邦訳で読んでいるプルースト(いま、自分かなり変なことしてるよなあと思ってしまった)ですが、全訳はさすがにハードルが高いので評判の高い抄訳を読むことに。プルースト的な感覚はやはり現代文学の転換にとって重要なファクターだったと思います。しかし、いまだプチット・マドレーヌどまりだったのが心残りで、重い腰をようやく上げてみたところです。やはり、マドレーヌから昔の記憶を甦らせる箇所のあざやかさったらないですよ! 

と、そんな読書生活を送ってます。