2014年6月21日土曜日

カフカ「橋」 改訂






 身がこわばり、寒い。私は橋だった。底知れぬ深い谷の上にかかっており、一方に爪先を、もう一方に手を突き刺して、ぼろぼろとくずれる粘土質の土にしがみついている。コートの裾が風になびき、底の方ではニジマスのいる凍える河がうなりをあげていた。こんな高く道も無いようなところに迷って来る旅行者は一人もいないので、橋が地図に描かれることはない。――だから、私はこうして待った。待たねばならなかった。崩れて落ちたりすることがなければ、一度建てられた橋は、橋であることを辞めることは出来ないのだ。
 やがて夜になった。――これが最初の夜なのか、千度目の夜なのか、私には分からなかった――思考はいつもからまり、同じところをぐるぐる回っていた。夏の夜になり、川がこもった響きを立てるころ、人の足音が聞こえた! こっちへ、こっちへと。――手足を伸ばせ、橋だろう、身を正せ、橋桁には手すりが付いていないのだから、自分に身を任せてもらえるようにしろ。頼りない足取りを自分でも気付かないうちに正そうとして、それでもふらついてしまったなら、お前は自分を気付かせるんだ、そして山の神のように彼をむこうの地面に放り投げてやれ。
 彼はやって来ると、先に鉄の付いた杖で私を叩いて調べ、私のコートの裾を持ち上げると直してくれた。毛の太い、私の髪に杖を突き刺し持ち上げたかと思うと、中へ差し込んだまま、おそらくあちこちを見回しているのだろう。すると――彼がこれから山を越え谷を越えていくところを夢想しているところだった――彼は二本の足をつかい私の身体の真ん中で飛び跳ねたのだ。激しい痛みに身震いし、一体何が起こったのか分からなかった。誰だ? 子供か? 幻覚か? 追いはぎか? 自殺者か? 誘惑者か? 破壊者か? 私は躯をひねった、彼を見るために。――橋が躯をひねる! 実際にはひねることなく、落ちていた。私は落ちた。そしてもうばらばらになっていた。鋭い小石が私に刺さる。その小石は、激しく流れる水の中から、私のことを穏やかに眺めていた。






 やたらと閲覧数が多いカフカの「橋」、正直訳がひどいから引っ込めたいと思うのだけれども、一応そのままにしておく。その上で、訳を少しずつブラッシュしていくことにしよう。全体的な雰囲気はそのままだけれども、細かなところを修正して文章を整えてみた。

雑記 その1

 空の雲あいが落ち着かず、突然の雨に見舞われることも多々あるから、外に出る前に上を見るくせがついてしまった。それで、今日は大丈夫だろうと、考えていると、夕方辺りにぽつぽつ降るのだから困る。特に洗濯物がたまって、せっかく洗ったとしても、部屋の中で干すから、独特の饐えたような嫌なにおいが鼻をつく。なかなか時間がとれず、夜中に洗濯機を回したりするせいで、部屋が少し締めっぽくなり、そんな空気の中で眠ると、どうやら夢も湿っぽくなるらしい。

 夢と言っても、何かしら意味を持ったような夢、夢の解釈という俎上に載せて耐えるようなものでなく、何か周りの刺激によって偶然浮かびえた印象のつぎはぎでしかない。ただ、フロイトも言う、たとえ外的刺激によって、それに類する夢を見るといって、なぜその夢の像はそうでなければならぬのか、と。こういうところにフロイトの発想のおもしろさや鋭さを感じるのであるが、たしかに、こたつに入って眠り、砂漠の夢を見たとして、こたつの熱さが、砂漠を想起させていることは間違いないが、なぜ砂漠なのか、夏の山、夏の海ではなく、なぜ砂漠なのか、それを説明しようと考えを巡らすことに「あり得ない」の一言で一蹴するのは、どうも考えを放り出してしまっているように思えてしまうから、フロイト先生がどう考えているのであれ、ある種多くの人にとって偶然としか思えないものに論理的なつながりを説明しようと努めてみる。

 続く

2014年6月15日日曜日

語学を「嗜む」ということ


 大学でドイツ語を初めて以来、一〇年が経ち、自分の中で「外国語と暮らす」ことは生活の一部になっている。それでいながら、いっこうに外国そのものに興味をもつことが無いのは、自分にはことばというものばかりが目の前にあり、そのほかの、とくに国といったものがあまりに遠く、触れようのないものであるために、たとえばその国の人が何を食べどのような家に住むのかを知るのと、隣三軒の人々が日々どのように暮らしているかを知るのとが、たいした違いが無いように思えてしまうのと同じで、興味の無さそのものに原因があるのではないかと考えている。つまり、どんなに近くても、知りたいと思わなければ遠いのであり、遠さそのものが遠い近いを決めるとは限らない。

 だからといって、言語学者になりたいなどと思ったことはついぞ無く、やはり言葉を「通して」なにかを知ることに楽しみがあるのだけれど、自分はそれがより個人の方へ向いているのも、外国というものへの興味の無さに関係しているのだろう。

 たとえば、ドイツ語はカフカ、フランス語はアンリ・ド・レニエなどの世紀末の文学者、ポルトガル語はフェルナンド・ペソアなどなど。
 よく、作家の生まれ故郷へ行くことで作家のことを知った気になる人がいるけれども、あれはいまいちぴんとこない。彼らは地平という横の向きばかりで同じところに立っていると考えるようだけれども、時間という縦の軸から見れば著しくずれているではないか。しかも時間を同じくすることは不可能ではないか。
 出不精の戯言と思う人もいるだろうけれど、言葉のみで向き合うからこそのおもしろさというもの、想像の膨らみ(あるいは、誇大妄想)に耽る喜びを忘れることは、なんだか頭の中にある泉を枯らしてしまうことにつながるのではないだろうか。

 ある意味でリアリティではなく、リアルが隣にありすぎることに、人が疲弊してしまうこと。

 確かに僕らが向き合う物は概してリアルなものだ、それは別に創作物であろうと変わりない。つまり、書かれたり、描かれたり、演じられたり、撮られたり、弾かれたり、そういったことを「されたもの」がいくらフィクションの側のものであっても、それに出会っている、対峙していること、そのものはあくまで現実のことで、僕らはその現実の中でフィクションの側のリアルを感じている、それがリアリティというものなんじゃないだろうか。

 それなのに、今はこちら(現実)のリアルをあちら(虚構)に持ち込み、あちらのリアルをこちらにもちこむことが意識されないままに行われているせいで、こちらとあちらの距離感がくるってきているような気がする。
 ぼくは現実と虚構のあいだに国境みたいなものがあるとは思わないし、そのあわいはもっとゆるやかなものだと考えている。そこにあるのはもしかしたら二色の濃淡でしかないのかもしれない。
 濃淡という、地平よりももっとセンシティブなものであるからこそ、慎重に扱うべきなのに、当たり前のように線引きできると考えているから線引きしたところの近くで混じっていた向こう側のものがすべてこちら側として扱われてしまう。灰色は無数の灰色があるはずなのに、すべては白か黒になる。

 僕らがもっと大切にしなければならないのは、リアルではなく、「リアルとの距離感」じゃないだろうか。
 言語を嗜むという行為には、その距離感を感じることの出来る可能性が含まれているように思えるのだ。