2011年9月19日月曜日

ぼくと上方落語 001

 落語は好きな方で、良く聴いている。 
 とくに上方落語。 
 落語には江戸と上方(あと実は東方、つまり東北地方の落語もある。別のを想像した人、怒らないから、名乗り出なさい)があるんですが、上方は完全に笑いに特化していて、江戸のような人情話や怪談話がほとんど無い。もともと、江戸落語のネタは上方から来たものがほとんどなのだけれど、江戸に移って、人情話に変化した物がいくつかある。たとえば、「景清」などは江戸にいくと、親が子を思って願掛けを行ったことで目が治ることが強調され笑いよりも親子愛の方が強調される。 
 ぼくとしては、江戸の人情話・怪談話も好きなのだけれど、テンポの良さとか、型にはめる、という感じが好きなので、上方の方を聴く。 

 上方落語の特徴は大きく二つ。 
 一つは道具、見台と膝かくしという物を前に置く。置かないネタもあるけれども、それを使った表現方法もいくつかあり、机や橋の欄干といったものを表したりする。 
 あと、その見台の上に置くのが、小拍子と張り扇というもの、小拍子は手の中に収まってしまうくらいの小さな拍子木で二本一組、これで鳴り物(後で説明)に合図を送ったり、場面転換をしたりする。張り扇は講釈師がつかうような紙を巻いたものではなく、皮を張った物で、この二つを組み合わせてリズムを作り、その間に言葉を入れていく。 
 これは、もともと上方落語は外での公演を主としていた事の名残であるらしく、こうした道具を使って前を歩く客の注意を引いていたらしい。 
 自分は、あまり張り扇を使う落語は聴いていない、唯一聴いたのが「東の旅」と呼ばれるもので、この発端は上方の落語家の間ではメソッドのようなものであるらしい。 

「ようよう上がりました私が初席一番叟でございまして、……お後二番そうに三番叟、四番そうには五番そう、御番僧にお住持に旗に天蓋、ドラににょうはち影燈籠に白張、とこない申しますとこらまあ葬礼のほうで、なんや上がるなり葬礼のことを言うてえらい縁起の悪いやっちゃとおしかりがあるかもしれませんが決してそやないので、至ってげんの良えことを申しております。 
 およそ人間には三大礼というて三つの大きな礼式があるのやそうで、こらなになにかと申しますというと、祭礼に葬礼に婚礼というこの三つですな。……・」(米朝落語全集 第六巻) 

 という言葉のなかに威勢良いリズムが間に挟まり、ひじょうに音楽的な印象がある。 
 もう一つは、先ほども言った、「鳴り物」というやつでいわゆるBGMが落語の中に入る。江戸落語ではそれは無い。ある意味、耳で聞いてよく分かるのは、上方の方かもしれない。 
 たとえば、大勢で賑わって歩くときには陽気な音楽が鳴り(「愛宕山」「地獄八景亡者之戯」)、雪の降るときにはしんみりとした曲が鳴る。言葉だけでしょうぶせなあかんという人もいるだろうが、こうした他の縁者との間の取り方なども含めて生まれるのが上方落語でもあり、その魅力なのだと思う。 

2011年9月17日土曜日

ぼくのプロポ 005

 事故に遭ってから、ぼくの何かが壊れています。自転車乗って、車にぶつかり、ぽんと空を舞ったらしい、そんな勢いでぼくの何かは壊れたそうです。真っ白ななか、ぼくはまえのぼくを見た気がします、それがまえのぼくだとそのときは知らなかったけれど。 
 体を揺すられて、ぼくは戻ってきた、ようです。本当に戻ってきたのでしょうか、ただ、来た、なのかもしれません。ぷっつりと過去から断たれてしまって、そこにぼくがいたのです。ぼくは誰なんだ、と思いました。ここはどこなんだと思いました。人間であるのは分かっているけれど、なんで怪我してるんだと思いました。自分が誰かと問われ、証明
しようと思ったのに、ぼくは自分を証明できなかった。免許証ひとつ取り出せなくて、そこで動けなかった。救急車に乗って、やっと怪我してると分かって、病院にはこばれて、それが大きいのだと分かって、病室に入って、ぼくは、生きてると、分かった。 

 あ、ぼくの何かが壊れているなあ、と感じました。 

 それは記憶というものだったりしたそうで、人の名前が出てこなくなったりします。名前を確認しても、その人と何をしたりしたか、忘れたりしてます。どんな人だったかがぼんやりしてます。名前を確認して、でもどうしても他人だと思ったりします。向こうも他人と思っているみたいです、安心しました。 

 それは性格というもので、ぼくは怒りっぽくなったそうです、いや、いま思い出せる自分を考えれば、我慢していた、のであって、怒りっぽくなったのではなく、我慢しなくなっただけかもしれません。もともと卑屈だったらしい自分がより卑屈になっているようにも感じます。黙ると言うことを覚えたみたいです。 

 それは動きと呼ばれるものかもしれないから、ぼくは手をぎゅっと握ってみようとするのだけれど、怪我をして皮膚がまた生まれている所がぴりっとするから、ぼくは途端に力を抜いてしまう。強く握れないなあ、ペットボトルを開けるのに上手く力が入らないなあ、と思ったりします。今まで出来たことが上手くできないのは困るので、それは練習をしなければなりません。出来るはずのものを練習するなんて、いや、本当は出来ていなかったのかも知れません。 

 ぼくのぼくというものが壊れているなあ、と感じています。

ぼくのプロポ 004

 泣きたいのではなく、泣こうとしたいのかもしれない。手前にではなく、手の届かない所へ、それをおくのだ。 

 ただ、すでに泣いてしまったので、泣いたということが残されていて、どうがんばっても私は泣いているどまりだ。 

 泣くと言うことを、未来においてはおけず、過去に、そして現在におくことになる。 

 涙粒のこぼれたのを、拾い集めなければならない。砂に染みていくそれらを掘り出しまでして。しかし、涙粒の染みこんでいく方が早く、私は掴みきれない。そのことにまた涙を流す。 

 涙はとめどもなく溢れてくる。いつか乾涸らびてしまうのかもしれない、涙だけではなく。 

ぼくのプロポ 003

  ○ 

 ぼくはただ当たり前のことを書くだけなのだ、正確な筆記を以て。 
 その当たり前を読まない人は、ただ踊り、歌い、食物を食い、眠りを貪り、己の享楽をのみ大事としている。残念でならない、彼らのために書いた文章はすべて、彼らの尻の下に敷かれ、その汗で滲んでいる。 

  ○ 

 何を求めているのか、知らない。高い塔の上で書物に囲まれ生きる老隠者のように、ひっそりと、黙々と、知識を得る人よ。知識は、死と同時に消滅する。何のために知を得るか。 

  ○ 

 一人の狙撃手のように。言葉を狙い撃つ。若々しいのも、老いたのも、狙撃手の前では同等、そこには生か死のどちらかしかない。死の宣告もなく、殺される言葉はなるべくしてなったのか、はたまた偶然か。 

  ○ 

 どうしても生活のレベルというものは下げにくいもの。例えそれが、100円のお菓子を買わないことでも。「いままで」が「これから」と結びついてこそ「今」があるのだという、人間の無意識な生き方がそうさせるのかもしれない。如何に100円のお菓子を買うことと買わないことを結びつけるか、それが問題です。 

  ○ 

 問は答えを選ばせる。問われた私たちは答えの選択を迫られる。その時の態度が私である。私たちは問うことばかり考える、問われなければならない。まなざすのではなく、まなざされること。まなざしかえすこと、時に逃げること。私がその中にいる。 
 

2011年8月1日月曜日

道化の構造


『道化』とは、自己を相対的地位において低く見せることで相手に笑い(ひどく攻撃的な)を発生させ、他者の利己的欲求を満たす者をさす。 

『道化』はなるのではなく、ならされる。 

ある集団において、個人の「位置」の固定が形成される様子から参加しているものと、形成後参加した者は明らかに違う。後者はその「位置」を当たり前のものとして考えるからである(フーコー)。 

『道化』の地位に固定化させられた者は己の行動を『道化・化』する義務を課せられる。それに反する行為には、ささやかな失望と冷笑を集団の参加者は与える。地位からの脱却は、集団そのものの脱却か、スケープ・ゴートを必要とするだろう。集団への固執度、そして、より善的であるならば、この脱却は容易たらしめることはない。 

かくして、『道化』は「道化である」ことを日常化され、彼そのものの特質として「道化である」が付与されているかのような錯覚を、人は持つようになる。『道化』の地位という場が彼の本質として認識される。本質と認識された彼は常に「道化である」ことを強迫されている。 

強迫された「道化」において、彼の心的圧迫からの逃避は、まさに自らが『道化』であることそのものに見出すようになる。それは一つのエポケーと云っても良い。

ぼくのプロポ 002

それも、以前は根拠があったかもしれない。 

でも、今もあるのか、本当に。それがそれであるために必要であったものらはすべて失われており、それでも、それはなにか幽霊のようにそこに「とどまらざるをえない」のではないか。 

それは私たちに根付いていた。しかし、今は切り離され、空中を漂うものとしてそこにある。 

わたしがそれを知るときには、わたしはそれを知っている。だからわたしはそれを知ったとして、知ったとは思わない。それはたしかにわたしから来たのだから。しかし、そのことと「それがここにいなければならない」ということは別だ。それがここにいる必要はない。風に乗って、どこへでも飛んでいけばいいのだ。

ぼくのプロポ 001

世界をチェスに例える人、あなたはそのプレイヤーだと感じているんでしょうか。 

確かに世界はチェスみたいなものだ。だけど、あなたもその駒の一つに過ぎない。 

この考えに立って考えるとき、あなたはあなたに味方がいるのだということと敵がいるのだということを私たちに知らせてくる。 

敵の脅威に対し、互いに守りあう者、一方的に守り、守られる者、ひとり孤独に立っている者、自由な道を持つ者、周りに道を塞がれどこにも行き場がない者、そうした者たちの中にあなたがいる。 

あなたは、この中のどの駒だと自分を考えるのだろう、もしかしたらキングでしょうか、あなたがこのゲームを認識する中心として重要な位置についていると考える限り、そうなのかもしれません。普通のチェスではキングの価値は計り知れない、なぜならゲームの勝ち負けはキングの生死に関わってくるから。 

しかし、このチェス、どうにも普通のチェスとルールが違う。キングが死んでもゲームが続くのだから。

だいいち、あなた、本当にキングなんですか? ポーンかもしれませんよ。 

でもね、それでも、あなたが敵陣を突っ切って最後の列にまで達せば、クイーンには成れるんです。 

守られて生きるキングでいるのか、それとも常に何かの可能性としてポーンであるのか、あなたがどちらであるかは誰も知らない。それにどちらにせよ、試合運びをするのはあなたじゃない、あなたを動かす誰かだ。

2011年7月27日水曜日

あなたのことばは間違っている





あなたのことばは間違っている 

私がそれを叫んだとして 

私のことばはそれ以上に間違っている。 

あなたは言葉に間違い 

言葉はあなたを間違う。 


私たちは言葉を殺さなければならない 


無限に増え続ける彼らのために 

なぜなら、彼らの血こそが 

彼らの母乳であり 

羊水であるのだから。 

あなたと私のことばはそうして 

間違っていく

あなたは叫ぶのですか?


あなたは叫ぶのですか? 

どこに向かって? そこに向かって。 

いえ、あなたに聞いているんです。 

あなたに向かって? あなたに。 



あなたにいるわたしは元気ですか? 

わたし? わたしですか? わたしは元気です。 

いえ、あなたに聞いてはいません。 

わたしに聞いてます。 わたしに。 



わたしがあなたと口にするたびに 

あなたが生まれます。 

なのにあなたがわたしと口にしても 

私は生まれない。

2011年7月3日日曜日

カフカの翻訳「木々」

原文
Die Bäume

Denn wir sind wie Baumstämme im Schnee. Scheinbar liegen sie glatt auf, und mit kleinem Anstoß sollte man sie wegschieben können. Nein, das kann man nicht denn sie sind fest mit dem Boden verbunden. Aber sieh, sogar das ist nur scheinbar.

翻訳
木々

私たちは雪の中の木の幹みたいなものなのだから。その滑らかな上に乗っかっているように見えて、ちょっと押したら取れて押せるように思えるけれど。いや、そんなことは出来はしない、地面としっかり繋がっているのだから。でも見てみなよ、それさえもそう見えるだけのことなんだ。


自分の思考に否定を重ねるような文章。最初のDennのために、何か話の途中を抜き出したような印象を受ける。私たちと「雪の中の木の幹」を同じと見ているが、後に続く言葉は、その「雪の中の木の幹」に対する言葉であり、一体それが「私たち」のどのような部分を指しているのか、分からない。カフカの作品の中でも生前に発表されたこの作品、初期に位置している。短いながらも、カフカらしさが詰まっている。「そう見えるだけ」、カフカほど「見ること」を疑った作家がいるだろうか。

まどろむ

 時計の針が部屋の中でひどく響くのだった。そのためにうまく寝られず、目を閉じても、周囲への感覚が鈍くならないで気疲れして目を開けると、霞む視界に浮かぶ文字盤を秒針ばかりが回っている。まだ五分も経っていない。夜の長さ、特に目が覚めているときの夜の長さは有限であるからこそ、永遠に続くように感じられた。床についたのは一時を過ぎていたはずだから、もう三時間もすれば空が白み、窓から透ける光で、夜を乗り越えるのだと鼻辺りまで身を包んだ布団のほこり臭さをかぎながら、目を閉じてはいられなくなるから、早く眠りにつかなければならない。それなのに眠りはいつまでも向こうから来る気配がなかった。こういうときについ枕もとにある本を手に取り、頭を疲れさせようとするけれども、大抵は失敗に終わり、余計に冴えてしまう。小説に出てくるひげ剃り用かみそりや、論文の途中に出てくる何を表わすのか掴めない数式が頭をぐるぐるまわるからだ。時計の秒針よりも速く、速く。頭の中で回る心像のひとつひとつはその時の自分にとってもっとも意味の無いものであり、もっとも遠いものであったはずなのに、夜という時間と寝るための場所によって、それらは近くなる。

2011年6月23日木曜日

短文「停滞の日」

 怠惰とは違う停滞を味わいながら、人に文句の云われない程度の酒をたしなんでいた。酒の表面にほこりのように積もるそれのせいで中々呑みこめない、そんな日だった。普段は氷を入れるグラスもその日は入れず、とろとろとした温みを含んだ液体を胃に流しこもうとすると、粘り気のあるみたいに入っていかない。それもこれもこの停滞のせい、すべてはそう……、とその時は考えていた。 

 苦しい、と云う訳ではなく、ただ、ただ、何もない、本当に、と自問しても、返ってくるのは、本当に。自分の心がそう思っているのだ、いくら聞いても答えは同じに決まっている、変化のない自分と自分の問答、はなから質問なんてこれしかない、本当に。 

 もうたいくつかすらも分からない。全てのことから自分を切り離して、残るものが自分ではなく、たいくつであるなら、自分こそがたいくつなのだから、たいくつを感じると云うのは、自分を感じることであり、結局たいくつが自分であり続ける以上、そこにあるたいくつは自分。手にもったグラスも、中にある酒も、たいくつであり、自分だ。そんな考えがぐるりぐるりとまわった。

2011年5月11日水曜日

最近の読書事情。

詠むものが少し、方向転換したような気がする。 

どうしてもということから、日本の古典をさらっている。古今集などもちらちら読むようになった。 
ドナルド・キーンの日本文学史を原著で購入。ちょっと後悔。 
でも、日本語だと18巻になるところ(しかも、今は売ってない。文庫化がどんどんされているけれど)が、四巻ですむからスペース的にはエコだ。(と思ったが、結局文庫版は購入しているので、どっこいどっこいになりそうな予感) 

ただ英語だと、知っていることも、何のことだか分からない場合が出てくる。 
例えば、一番最初の前書きにでてくる引用。 


Xian ji was filled with wrath at Hongmei; 
Load Pei, bent and bowed, came to pay him homage. 
Fan Zeng plotted harm, but was refused. 
Secretly handing over his sword, he made a pact with Zhuang. 

Wen Hsuanという中国の文集からどうこうと書かれており、なんじゃこりゃ、と思っていたら。高校の教科書にも載っている有名なエピソードでありました。(普段なら拙訳をのせるところですが、突然出てきたときのわたしの狼狽えを共感して欲しいので、あえての省略) 

また、紀貫之の古今集仮名序の冒頭「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」なども、 

Japanese poetry has its seeds in the human heart and burgeons into many different kinds of leaves of words. 

となっていて面白い。最近では、わざわざウェイリー訳の源氏物語を日本語に再訳していたりもしますから、こういうのを読むのはあるいみ、外国の日本古典受容の如何をみるものであると同時に、日本語と外国語の間を往復し、内容のみを残す(言葉を削いで意味を残すような)作業はある意味、言葉に立ち止まる良い機会になっています。 

そんなこんなで内には、ずいぶん洋書もそろいました。 
芥川や夏目漱石の『三四郎』のドイツ語訳なんかも買ってしまった・・・・・・。 


いっぽう、和書は何を読んでいるかと言いますと、めっぽう今は「須賀敦子全集」と「抄訳版 失われた時を求めて(鈴木道彦訳)」を読んでいます。 
須賀敦子さんは、もう亡くなられたイタリア文学の翻訳者。知り合いがいぜん読んでいたというのも実は動機であるのですが、そのとき買っていたものにようやく手をつけている次第。いやあ、なぜ早く読まなかったのだろうと、後悔していますが、むしろ、今だからこそこうやって心に響いているのだと思うようにしました。そして、イタリアに嵌っていくという、イタリア語の語学書なんか買いあさったという・・・・・・。 
そして、キーンの日本文学史とは真逆に邦訳で読んでいるプルースト(いま、自分かなり変なことしてるよなあと思ってしまった)ですが、全訳はさすがにハードルが高いので評判の高い抄訳を読むことに。プルースト的な感覚はやはり現代文学の転換にとって重要なファクターだったと思います。しかし、いまだプチット・マドレーヌどまりだったのが心残りで、重い腰をようやく上げてみたところです。やはり、マドレーヌから昔の記憶を甦らせる箇所のあざやかさったらないですよ! 

と、そんな読書生活を送ってます。

2011年2月25日金曜日

荒川古里語事

 知る人は知るが私は福井県の生まれである。 
 人は己の生まれる時と場所を選べない。この命題は私にとってあまり重要ではなく、不満は感じることもあるが、相補うほどの満足も得ている。 
 福井県は人口少ないところで、閑散としている。私の生まれた場所は県庁所在地から見てベッドタウンと呼ばれたりもしているが、平日ならば昼に町中を歩いても人はおろか車ともすれ違わないことも多々あるような、そんな場所だ。私が高校の頃は家の裏は広く水田になっており、冬に雪が積もると、ただ白い床が広がっていた。たまに夜中、窓を開けてみると、静かに冷えた空気が耳を切るように感じる。そしてどこか奥の方、それは向こう側なのか、それとも身体の中からか知らないが、しー、と金属を擦るような音が聞こえる。月明かりだけの空間を一気に肺に溜めるとき、私は生きているのだ、と感じたものだ。 
 そんな家の裏にも北東の方に小学校が出来てしまった。もうあの空気を楽しめないのである。 
 福井県を知る人は少ない。ぴんと来ない場所であるらしい。 
 私も何か福井県の事を友人に語ろうとすると、何を語ればいいのか分からなくなる。なにも語るべき所がないのである。 
 つまらないところだと思う。閉じたところだと思う。私はあそこに住むのはうんざりしてしまっている。だから、帰ろうとはあまり思わない。 
 私にとって、場所に意味はない。そこにいる人が大事だと、しみじみ思う。なので、人を失った場所にはあまり興味は無いのだ。 
 私が県とつながりを持っているのは、家族がいる、ただそれのみであり、それ以上の理由などない。だから、もし家族の全てがいなくなった福井県に行きたいとはまったく思わない。友人は、と聞く人がいるだろうが、私は福井県に友人を持たない。いや、一人いる。誕生日を互いに祝う。あの友人のために帰るのならばそれも良いと思える。私は、しかし、それ以外の人はいない。 
 そんな、福井県のことを書いた文章も少ない。確かに、少なからず作家を輩出するわが県には小説の舞台となっている場所がある。しかし、それも嶺南と呼ばれる南の地域のことばかりで、苓北である私の地方のことを書いているのはあえて知る人を上げれば、水上勉、中野重治、そして最近の舞上王太郎か。しかし、だれも私の生まれた場所、よく知る場所からは少しだけ遠い。 
 なので、まるで地域というものに興味を持たずに文章というものを読んできた。 
 荒川洋治の「黙読の山」を読む前もまるでそんなことを考えたことは無かった。 
 しかし、途中私は非常に慣れ親しんだ地名を見つけてしまったのだ。 
 「可能性」という短文は切符を手元に残す話だ。 

  * 

 都内から福井に帰省するとき、下車駅はAなので、ぼくはAまでの乗車券を買う。いつもいつも、Aではつまらない。楽しみがない。それでひところからAの一つ先の駅の細呂木、あるいはさらにその一つ先、牛ノ谷までの切符を買うことにした。A駅で降りるときに、途中下車のハンコを押してもらい、切符を残すことにしたのだ。二つ先までの切符にしても運賃は変わらないからだ。細呂木、牛ノ谷にぼくは一度も降りたことはないが(無人駅か乗降客の少ないさみしい駅だろうと思う)、それらの切符にすると気分がいい。新しい世界へ、おもむくような気持ちになる。 

  * 

 荒川は福井出身の詩人、私は彼の詩を読んだことは無いけれど、保坂か高橋のどちらかが彼のことを書いていたのを覚えている。確か高橋だったと思う。私の母方の実家は細呂木にある。駅の目の前で煙草とクリーニングを生業にしている。このように書くと、なんだか妙な組み合わせだと感じた。 
 荒川自身は、細呂木を降りないようだ。彼の言うとおり、細呂木は無人駅で無賃乗車も出来てしまうような駅だが、誰もそれをしない。人が金に五月蠅いのである。 
 そういえば、最近駅から少し南へ行ったところでよくカメラをもった人々を見かける。俗に言う、鉄っちゃんと呼ばれる人々で、電車の写真を撮っているらしい。母に聞いたら、なにやら写真の大会があり、そこで最優秀に選ばれたのがその場所から撮った写真だったそうだ。その写真が最優秀であったのは、その瞬間を切り取ったからであり、そこから撮れば必ず良い写真が撮れるというのでもないだろう、と思ったが彼らの勝手なのだから口を出す必要はない。 
 その話はともかく、私は初めて本を読んで、近さを覚えた。こうした気分になるのは今度いつになるのか。私の今住むところは、残念ながら文学的でない場所だと思うから、きっとこの先もう無いかもしれないと感じた。 

2011年2月11日金曜日

朝吹真理子『きことわ』

 言葉を鑿に、言葉を鎚にして、世界を削る。できあがった一つの像よりも、当たりに散らばる屑に、私は酔った気分になる。 
 小説の言葉とはそういうものだと思う。飛び散っていったもの、はらはらこぼれ落ちるもの、それを拾い上げ、すくい上げ、ふっと息を吹きかけ、飛び散っていくのを眺める。それが小説だ。 

 朝吹真理子は二冊目、といっても現在単行本はこの二冊しかないのだが。 
 この人の作品を読むと言葉の選ばれかたにどきりとする。この感覚は、最初期のよしもとばななの時にも感じた。詩的人間の香りがする。散文人間にはどうしてもたどりつかないものだ。 

 いまどきのはやりはあくまで散文人間の作品であるなか、ここまで詩的人間の作品を堪能出来るのは嬉しい。 
 私はほんらい詩的人間だと思うのだけれど、散文に毒されているため、どうしても言葉が繋がらない。そういうときに、読むのが高橋源一郎である。しかし、かれはあまりに詩的すぎるため、ひょっとすると、詩的人間として詩に死にたくなるほど毒されてしまう可能性がある。つまり、小説が書けず、そこに詩ができあがる。 
 詩的人間が詩を書かずに、小説を書くことの難しさはそこにある。 
 朝吹という人の作品にその完遂をみることで、私の心はとても羨ましいという思いが満たしていく。 
 私にはできないが口癖の私にどこまで小説が書けるのかしらない。 
 それでも、私しかできないを見つけようとあばれまわってみる。 

 たとえば、後ろ髪を惹かれる思いを書いた小説は山ほどあるけれども、本当に後ろ髪を引かれる小説はこれしかない(これは山田詠美も言っている)。 
 これはカフカ風な雰囲気である。そして、それはすでにメタファーを超えている。メタ・メタファーであり、めためたな言葉なのである。以前、後輩達のカフカ風散文作品を見ていた中にあった、死因はエコノミー症候群と同じくらい、メタ・メタファーを味わえる機会はそうそうにない。 
 私自身はこうした言葉に疎い。詩的人間としてそれはちょっとした欠陥である。 
 しかし、しかしと逆接をつかって反論したい。 
 詩的にもいろいろあって、私の詩的言語はむしろそうした鑿や鎚の鋭さによって生み出される美しい屑ではなく、甘さによって世界に生じるささくれを目指したい。 
 そう、言語とは鑿や鎚であると同時に、屑やささくれなのだ。 
 

2011年1月22日土曜日

朝吹真理子『流跡』

 芥川賞のニュースが出たのを聞いて、W受賞やら何やらが話題になっているのを知ってもどうとも思わない自分が、朝吹という名前を見たとしても、また知らん名前だという風にしか思わなかった。しかし、その後、この人を調べたときに私は、しまった、とつい口走った。この人の本を一度手に取ったことを思い出したからだ。しかも出たばかりの頃に。 

 住んでいる近場ではいちばん大きな書店で本を探していたときに『流跡』が目にとまった。「ドゥマゴ賞」と「堀江敏幸」の名前が目について、ページを開いた気がする。一、二頁ほど繰って、面白いというか、また詩的なのが顕れたな、と考えつつ、今そんなに金がないから良いや、と弁解して買わなかった。 

 これは買うしかないと、買って読んだら、また、しまった、と呟いてしまった。先を越されたからである。 

 自分は小説を書くとき、一つのルールを自分に課した。それは「私」と書かない一人称視点の小説を作ろうと云うものだった。私は「私」が嫌いだった。日本語は別に「私」と書かなくても文章が書けるのだし、わざわざ書かなくても書けるのなら、ひとつ書いてみようと思ったからだ。 


 しかし、一度書き出してみると、如何に「私」という言葉が出しゃばってくるかが分かった。どうしても「私」が欲しくなるのである。そうこうして書こうとしても、ちぐはぐな文章となり、自分にはそれが向いていないのかもしれないと思って、そのルールを取っ払った。 

 そして、『流跡』を見てみれば、それが出来ているのだ、しかも当たり前かのように、自然と。 
 うらやましい、と思う。そして、彼女の言葉に驚く。 


 しかし、それでも、自分が『私』と書かない小説を書くとすれば、朝吹さんのようにはならないと思う。それは自分が朝吹さんのかくものよりももっと静謐なものを求めており、固く、揺らぎのない文章を求めているからだ。そしてそこには滑稽も含む。 
 見れば、同い年だという。悔しい、方向性が似ている、でも、似ているけれども、同じではない、まだ自分は書ける気がするという、どうしようもない負けん気を抱いて、昔書けなかった作品をまた書いてみたい気持ちを持った。

2011年1月10日月曜日

笹井宏之『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』

 死という現象は作品にとっては付加価値となるのが、芸術のどろどろした側面とでもいいましょうか、例えば私が死にまして、なにやら作品集が出たら、死人に口なし、相手も死んだ野郎を悪く云うと体裁が悪いから何も言えなくなる、そんなんでええことばかり云ってもらえるのでしょうが、死ぬ前にちゃんとそんなことをしてくれるな、だめならだめと云ってくれ、と遺書に残しておきたいですね、というか、この言葉はすでに遺されているので、見た人はそう思っておいてください。 
 さて、いつものように近所の書店に行き、当てもない買い物をしていたとき、レジの前で平積みされている中に見つけたこの本を読んだとき、私はこころをぐいと持って行かれるような気持ちになった。痛いのである。その透明な言葉に私の欲していた世界を見出したからだ。 
 思わず、買ってしまったその本を、私は部屋で一人読んでいた。始めの一首がこれである。 

 えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい 

 思わず口ずさみたくなる言葉、この人の感性は私に近いのだと感じた。 
 そして、私は読み終わり、著者の略歴を見た。この人は二年前にインフルエンザで死んだのだということを知った。1982年であるから、今の自分と同い年である。 
 私は読み終わったときにこの『死』を目にした。だから、この気持ちに『死の装飾』は無い。むしろ、遺された言葉のみずみずしさは『死の装飾』をはじき返していることを知った。私にはまだこのような言葉のみずみずしさを手に入れることができないだろう。むしろ、石、そう化石である。土に埋もれた死体を掘り起こして、つなぎ合わせる作業しかまだ私には出来そうにない、みずからの生きた肉をそぎ落とし壁に貼り付ける行為をまだ恐れている。 

 (ひだりひだり 数えきれないひだりたちの君にもっとも近いひだりです) 
 ゆつくりと私は道を踏みはづす金木犀のかをりの中で 

 むかし、私もこのような言葉を使ってみようと、なまくらなナイフで私の鳩尾を突いてみたが、あまりに痛くて、どうしようもなく手から離れ落としてしまった。

2011年1月7日金曜日

ベルンハルト『古典絵画の巨匠たち』

日本ではあまりにもベルンハルトがプッシュされない現実を嘆いて、皆さんにベルンハルトを読んでもらいたい、わたしは書き記す、なにゆえ彼は日本で受けないのか、むしろ彼の呪詛は日本人には馴染み深いはずであるのだ。しかし、と私は私に言う、その呪詛を受け取ろうとして彼の小説を読むと、途端文体が邪魔をする、と私は思った、この異様なまでの入り組んだ文章と、改行のなさ、彼はまったく改行をしないのである。すくなくとも、自伝五部と呼ばれる作品以降では。しかしそれは、と考えた、彼の内的独白と完全に寄り添って話された一つの祝詞、あるいは呪詞であるといえるだろう。その祝詞は「語られる」のではない、「書かれる」、その事実を私たちは真摯に受け取らねばならない。この作品の場合、「アッツバッハーは書き記す」という箇所がある。それによって、私たちはこの小説の自己完結性を享受することだろう、と思った、そしてそれにより私たちと彼の間の断絶を感じることだろう。私たちはその完結した世界の中で「語られる」のを「語る」人に「語られる」呪詛をその身に受けつづける様を見ることになる。呪詛の相手は彼のまわりの人々、つまりオーストリア人に向けられる、そしてそのオーストリア人を作り上げた国家、文化、宗教への執拗なまでの罵詈雑言、さらにはドイツ語圏という大きなくくりにまでその嫌悪が行き渡るのである。ベルンハルトの小説にはこの嫌悪の感覚が至る所に見られる、と私は私に言う、しかしそれはドイツ語で書かれ、何より彼ら登場人物もベルンハルト自身もオーストリア人である。呪詛は常に自分自身にも浴びせかけられている、この絶望を感じよ、と私は命令する、その呪詛をあなたも浴びよ、そして客席から舞台を見ていただけのその身を舞台上へ、舞台裏へ押しやるのだ、と私は私に言う。ベルンハルトは常に、安楽椅子に座る私たちを無理やりにでも立たせて、世界の舞台裏を覗かせようとするのである、とわたしは書き記す。

2011年1月3日月曜日

中勘助「銀の匙」

 帰省の電車の中、一冊の本を読んでいた。今まで、読もう読もうと思っていてそのままにしておいた中勘助の『銀の匙』である。どうにも嫌いではないのだけれども、腰を落ち着けて読みたいとおもっていたら、忙しさや楽しさに紛れて、ずっと前に買ったにもかかわらず最初の十ページあたりでいつもやめてしまい、うちにある本の山(その名の通り)の中に紛れていたが、帰ったときに読むのを選ぶときに気まぐれにえらんでもってきたら、今の心境とあったのか、すっと読めた。 
 前半が良い。後半も悪くはないけれど、青年になってしまってはこの話は台無しの感はある。みんなが誉めそやしたせいで勉強する気を起こさずにきたために私は出来の悪い子のままで今まで来てしまったのだ、と家族を憎み泣きわめく場面が特に良い。なんと身勝手な、しかしそれだから子供なのだ、と思わなくもない。こういうある種の論理的な自己中心的態度というか、そういったのは意外に大人になっても残っているものだ。かくいう自分もこの気性が激しい方で、そうした態度を露わにすることがしょっちゅうである。しかし、大人になって慎みも覚えたので、自分の論理が可笑しいことくらいわかってもいる。そうした、内面のちぐはぐした場合の行動の滑稽さに、しばしば恥ずかしくなることもある。こうした気性は治らない、多分自分は治すつもりもない。 
 夏目漱石が褒めたというのは有名な話であるが、この『銀の匙』をどう読むかは少し迷う。小説、だろうか? どうもそう読めない。これはあくまで「散文」としてしか読むことのできないものだ。その「散文性」のためにこれを他の小説などと比べることができなくなってしまっている。小説を比べるなんてことはすでにナンセンスなのかもしれないが。 
 筋という筋のない短文の寄せ集めであるこの作品をつなげているものは何なのだろう、と考えてしまう。「銀の匙」というタイトルにある、その銀の匙は最初に登場したきりあとは姿を見せない。プルーストのプティト・マドレーヌと同様、記憶を呼び覚ますのにこんな素晴らしいものは無いのに、それを贅沢に使っている。そう、呼び覚まされた記憶。これはまさに中勘助の「失われた時を求めて」である。いや、プルーストは「失われた時を求めて」などと哲学的な詩的なタイトルにすべきではなかった。ただ、「プティト・マドレーヌ」と書けば良かったのだ。