言葉を鑿に、言葉を鎚にして、世界を削る。できあがった一つの像よりも、当たりに散らばる屑に、私は酔った気分になる。
小説の言葉とはそういうものだと思う。飛び散っていったもの、はらはらこぼれ落ちるもの、それを拾い上げ、すくい上げ、ふっと息を吹きかけ、飛び散っていくのを眺める。それが小説だ。
朝吹真理子は二冊目、といっても現在単行本はこの二冊しかないのだが。
この人の作品を読むと言葉の選ばれかたにどきりとする。この感覚は、最初期のよしもとばななの時にも感じた。詩的人間の香りがする。散文人間にはどうしてもたどりつかないものだ。
いまどきのはやりはあくまで散文人間の作品であるなか、ここまで詩的人間の作品を堪能出来るのは嬉しい。
私はほんらい詩的人間だと思うのだけれど、散文に毒されているため、どうしても言葉が繋がらない。そういうときに、読むのが高橋源一郎である。しかし、かれはあまりに詩的すぎるため、ひょっとすると、詩的人間として詩に死にたくなるほど毒されてしまう可能性がある。つまり、小説が書けず、そこに詩ができあがる。
詩的人間が詩を書かずに、小説を書くことの難しさはそこにある。
朝吹という人の作品にその完遂をみることで、私の心はとても羨ましいという思いが満たしていく。
私にはできないが口癖の私にどこまで小説が書けるのかしらない。
それでも、私しかできないを見つけようとあばれまわってみる。
たとえば、後ろ髪を惹かれる思いを書いた小説は山ほどあるけれども、本当に後ろ髪を引かれる小説はこれしかない(これは山田詠美も言っている)。
これはカフカ風な雰囲気である。そして、それはすでにメタファーを超えている。メタ・メタファーであり、めためたな言葉なのである。以前、後輩達のカフカ風散文作品を見ていた中にあった、死因はエコノミー症候群と同じくらい、メタ・メタファーを味わえる機会はそうそうにない。
私自身はこうした言葉に疎い。詩的人間としてそれはちょっとした欠陥である。
しかし、しかしと逆接をつかって反論したい。
詩的にもいろいろあって、私の詩的言語はむしろそうした鑿や鎚の鋭さによって生み出される美しい屑ではなく、甘さによって世界に生じるささくれを目指したい。
そう、言語とは鑿や鎚であると同時に、屑やささくれなのだ。
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