2011年8月1日月曜日

道化の構造


『道化』とは、自己を相対的地位において低く見せることで相手に笑い(ひどく攻撃的な)を発生させ、他者の利己的欲求を満たす者をさす。 

『道化』はなるのではなく、ならされる。 

ある集団において、個人の「位置」の固定が形成される様子から参加しているものと、形成後参加した者は明らかに違う。後者はその「位置」を当たり前のものとして考えるからである(フーコー)。 

『道化』の地位に固定化させられた者は己の行動を『道化・化』する義務を課せられる。それに反する行為には、ささやかな失望と冷笑を集団の参加者は与える。地位からの脱却は、集団そのものの脱却か、スケープ・ゴートを必要とするだろう。集団への固執度、そして、より善的であるならば、この脱却は容易たらしめることはない。 

かくして、『道化』は「道化である」ことを日常化され、彼そのものの特質として「道化である」が付与されているかのような錯覚を、人は持つようになる。『道化』の地位という場が彼の本質として認識される。本質と認識された彼は常に「道化である」ことを強迫されている。 

強迫された「道化」において、彼の心的圧迫からの逃避は、まさに自らが『道化』であることそのものに見出すようになる。それは一つのエポケーと云っても良い。

ぼくのプロポ 002

それも、以前は根拠があったかもしれない。 

でも、今もあるのか、本当に。それがそれであるために必要であったものらはすべて失われており、それでも、それはなにか幽霊のようにそこに「とどまらざるをえない」のではないか。 

それは私たちに根付いていた。しかし、今は切り離され、空中を漂うものとしてそこにある。 

わたしがそれを知るときには、わたしはそれを知っている。だからわたしはそれを知ったとして、知ったとは思わない。それはたしかにわたしから来たのだから。しかし、そのことと「それがここにいなければならない」ということは別だ。それがここにいる必要はない。風に乗って、どこへでも飛んでいけばいいのだ。

ぼくのプロポ 001

世界をチェスに例える人、あなたはそのプレイヤーだと感じているんでしょうか。 

確かに世界はチェスみたいなものだ。だけど、あなたもその駒の一つに過ぎない。 

この考えに立って考えるとき、あなたはあなたに味方がいるのだということと敵がいるのだということを私たちに知らせてくる。 

敵の脅威に対し、互いに守りあう者、一方的に守り、守られる者、ひとり孤独に立っている者、自由な道を持つ者、周りに道を塞がれどこにも行き場がない者、そうした者たちの中にあなたがいる。 

あなたは、この中のどの駒だと自分を考えるのだろう、もしかしたらキングでしょうか、あなたがこのゲームを認識する中心として重要な位置についていると考える限り、そうなのかもしれません。普通のチェスではキングの価値は計り知れない、なぜならゲームの勝ち負けはキングの生死に関わってくるから。 

しかし、このチェス、どうにも普通のチェスとルールが違う。キングが死んでもゲームが続くのだから。

だいいち、あなた、本当にキングなんですか? ポーンかもしれませんよ。 

でもね、それでも、あなたが敵陣を突っ切って最後の列にまで達せば、クイーンには成れるんです。 

守られて生きるキングでいるのか、それとも常に何かの可能性としてポーンであるのか、あなたがどちらであるかは誰も知らない。それにどちらにせよ、試合運びをするのはあなたじゃない、あなたを動かす誰かだ。