2013年10月28日月曜日

音楽について

 吉田秀和を読むと、音楽が聴きたくなる。これこそ音楽批評だと思う。大抵のCDなんかに付いてる解説なんか見たって仕方が無い、それが何年に作られ、その時作曲者は云々なんて話を聴いてもしょうが無い。時々、作曲者が誰それ、とか、曲名はどうこう、なんてこと自体いらない、なんて考えもする。どこかでラジオか有線で流れてくる曲に耳を傾けるくらいがちょうどいいと思ったり。あとで気になっても、調べようが無いのが不便だけれど、まあ、一期一会。

 それだから、こと音楽に関する本はほとんど読まなかった。中学から音楽をやってて、それも惰性で十年は続けていたのに。たまにネックの歪んだギターの調子を合わせて、バッハのリュート組曲とか、ピアソラのブエノスアイレスの夏とかをリズムもテンポもたどたどしく鳴らしたりするのに。それくらいには音楽になじみがあって、たまに買ったりするのだけれど、それきりのものばかり、あえていうなら、読んだ本、楽典、管弦楽法、ってなる。だから、楽譜を読むのに苦労は無いけど、それだけだ。結局、音楽は自分にとってやるものでもない、かといって、聴くものなのかというと少し違う。よく、心の底からの感動を吐露する人がいるけれど、そういう類の動揺を感じることは今まで無かった。それをいったら、小説だって、映画だって、漫画だって。どこか冷めてる、人が良いと言うから読む、観る、聴く、ただそれだけのことが多い、基本感動できない人間なのだ。

 だから、吉田秀和の本を読むというのは自分としては異例のことで、しかも、面白いと思っている自分がいることもまた異例なのだ。その「おもしろい」と思う感覚は、Interessantの方で、Amuseでないところがまた自分らしいと思うのだけれど。例えば、丸谷才一を読んでいるときに感じる感覚もまさにこれで、それは旧仮名遣いというものだったり、常体と敬体を織り交ぜた文章だったり、ジョイスから発想を得た、意識の流れを感じさせるあのモダニズムな前期の作品群だったりとそういうものに対する「おもしろい」の感覚なのだ。

 丸谷才一のエッセイを読んでいると、時折この吉田秀和の名前をみる。どちらも桐朋学園で教鞭をとっていたんだそうだ。かたや東大英文、かたや仏文、縁もあるから褒めるのかもしれないと思ったけれど、丸谷才一はあまりそういうことをしない人だ、つまり良いから良い、悪いから悪いとはっきりしてる。日本のエッセイを作り替えた一人であると言い切れるこの人が、批評の文体を学んだとはっきり言っているのが吉田秀和。ここまで言いきれるっていうのがすごい。

 話がそれている。とにかく、吉田秀和の本は自分の肌に合うのか、手がしびれたり、目が疲れたりするのも構わず、先へ先へと読んでしまう。
 初めて読んだのは「主題と変奏」、中公文庫。薄い本でさらっと読めるのだけれど、そこにある文章は二度読んでも三度読んでも良い。なぜだろうと考えてみると、やはり無理が無いというか、自分の感覚を裏付けているものに対してブレが無いからなんだろう、と思う。たとえば、同じ私が思っていることは誰それがいっているという言葉にしても、普通なら権威主義に思えてしまうのが、吉田秀和の文章を読むと感情としても理性としてもその土台がしっかりしているからか、そうした一流の人々の言葉はあくまで添え物で自分の言葉がメインであるという感じがする。まさに、一流の料理は一流の素材のことではない、と教えられる気分だ(まあ、一流の料理なんて食べたことがない自分がいうのもあれですが)。

 たとえばベートーヴェンの弦楽四重奏、どうしてもカルテットという形態に対して、何がおもしろいのかさっぱり分からなかった自分が四重奏をおもしろいと思えるようになったのは、ラヴェルとドビュッシーの四重奏と、アルバン・ベルク四重奏、そして吉田秀和の文章なのだ。流れとしては、まず二人の作曲家の曲があり、そして演奏者と批評家が同時に自分にそれを教えた形になっている、といってもその間にはかなり開きがあるが。そもそもなぜカルテットの良さが分からなかったかというと、簡単に言えば、自分が仲間はずれにされていたから。コントラバスをやっていた自分にはカルテットに触れる機会も無ければ、興味を持つきっかけもなかったのである。そもそもピアノの音があまり好きでは無いという理由でピアノ曲を聴かないなど、音楽の偏食が激しい自分としては、理由は後付けみたいなもので、きっと食わず嫌いか何かだったのだろう(最近ではピアノ曲も聴く、特にベートーヴェンの後期ソナタ)。

 食わず嫌いというと、それは自分の一つの本性みたいなもので、偏見というかそういったものに対して人一倍反応する自分は、多分他の人の数倍は偏見を持っている。そういう偏りを治したいと思ったけれど、それがかなり微妙なバランスで、たぶんどこかに手を付けたら、とたん崩れてしまうので、やめた。だから、以前は受け付けなかったものを享受できるのは、偏見が無くなったからだというよりも、その数ある偏見の中で上手く処理できるようになったというのが正しい。そんなものなんだろうと思う、好きになるというのは。

 自分が好きな作家や人物って言うのはある意味「頑固」な人が多い気がする。自分を曲げない人間、偏屈というのではなく。もしかしたら、丸谷さんも吉田さんも実際会ってみると付き合いづらい人たちなのかもしれない。といっても、話す機会は訪れることはないけれど。自分もそんな頑固さを持っていたいのだ、できれば。

 ちくま文庫吉田秀和コレクションの中の「私の好きな曲」を読みながら、ベートーヴェンの四重奏曲を聴いて、思ったことを書いてみた。