2012年8月29日水曜日

書くこととフロイトの無意識の構造


 先日、大学にふらりと行くと研究会が開かれていて聞くことになった。 
 発表したのは、今は京大の院にいる研究室OB。 
 内容はインゲボルク・バッハマンとシェイクスピアというもので、詩人であるバッハマンの一つの詩がシェイクスピアの作品と関係した語彙や技法を使用していることに言及し、そうしたものに隠れていったものを示唆していった。 

 バッハマンもシェイクスピアも囓る程度でまったく深くは知らない自分にとって今回の発表は、「生成論」としてとても面白く聞けた。 
 取り上げられたバッハマンの詩「ボヘミアは海辺にある」は完成までに九つの稿があり、初稿と比べると完成稿はかなり形の違うものとなっている。 
 発表者曰く、初稿の段階にバッハマンが詩に込めていたものはシェイクスピアの引用によって「覆い隠され」ている。 

 ここからは、自分の考えたこと。 

 発表者に質問をしてみると、バッハマンがこの詩を書いた時期の遺稿を読むと、かなり詩に手を加えており、いわゆる天才型の詩人とは違うとのこと。 
 自分にはそれが、書く行為への欲望が書く内容へのそれを上回っている、という風な印象をもった。それはカフカの作法を知ったときとおなじ印象だ。 

 こうした「何度も同じものについて書く」ということに対して、フロイトの「抑圧」概念との近さを思い浮かべるのはたやすい。「書きたかったこと」が「書くこと」を繰り返すうちに「書かれたもの」と乖離していく。そうしたプロセスがフロイトの意識/無意識の関係を想起させる。そして、自分はそれに親近感というか、得心というか、なんとなくではあるが、そうだなあ、という気になるのだ。 

 ひとつにはそれが自分の体験として、わかる、からなのかもしれない。未だに完成しない小説があるのだけれど、たびたび最初から書いていく内に、最初書いた時にこの小説の中で込めようとした(込めようとされていた?)ものがどんどんと見えなくなっていく。書きたいことから書くことへ重心がずれていく感覚、それは反物語的な感覚だと思うし、一方で非常に物語的な感覚だといえる。バルトの言う「快楽」は読むことの「快楽」であったけれども、それと同じような書くことの快楽の体験がそこにある。 

 では、その体験とフロイトの抑圧構造はどういう関係が見いだせるのかは考えがまだまとまらない。 
 もう少し考えて見たいとおもう。

2012年8月7日火曜日

記憶の音楽棚



 吉田健一の『書架記』という本がある。今でも中公文庫で買える。
 
 内容は戦争で灼けてしまった青春時代の本を思い返すという体裁の書評で、執筆時に筆者がその本を持っていないというところが面白いと思った。もちろん別の本で読んだのかもしれないがほとんどは記憶で書いているところに記憶という洗練/美化/脚色を被る書物の唯一性がそこにある。

同じ事をしても面白いとは思わないので、自分は音楽でそういうものが無いかを思い返してみる。


・タン・ドゥン作曲 オペラ「Tea ~茶経異聞~」

 中国の現代作曲家である、タン・ドゥンのつくったオペラ。グリーン・レクイエムという日本でも流行った映画の音楽も作っているから、もしかしたら彼の音楽は聴いたことがあるかもしれない。
 自分はこの音楽をNHKの芸術番組で観た。ビデオに録ったが今ではビデオを観ることが出来ず、カセットも多分かなり痛んでいることだろう。

 内容は茶の秘伝「茶経」を巡る日本の皇子と唐の皇女の悲恋。

 物語は簡素だが、台本は難解。禅的な思想が繰り広げられる。

 音楽が良い。アジアの声唱法がふんだんに使われているのに、西洋音楽とぶつからずに調和している。それがタン・ドゥンのききどころでもある。

 もう一つの特徴は、舞台効果と音楽の融合。舞台上に三人の打楽器奏者がいて彼らの演奏=舞台演出となっている。
 とくに印象的なのは、天井から垂れ下がる紙。それを彼女達(打楽器奏者は全員女性。衣装も着ており、天女のように舞台を「舞う」)は撥で叩いたり、或いはゆすったりして音を奏でる。
 場面ごとに中心となる楽器が場の名前となっている。「水」「紙」「陶器」など考えると、こうしたものは「茶」に結びついているとも考えられる。

 たぶん、私にとってのオリエンタリズムの憧憬はここから始まっているような気がする。