2011年1月22日土曜日

朝吹真理子『流跡』

 芥川賞のニュースが出たのを聞いて、W受賞やら何やらが話題になっているのを知ってもどうとも思わない自分が、朝吹という名前を見たとしても、また知らん名前だという風にしか思わなかった。しかし、その後、この人を調べたときに私は、しまった、とつい口走った。この人の本を一度手に取ったことを思い出したからだ。しかも出たばかりの頃に。 

 住んでいる近場ではいちばん大きな書店で本を探していたときに『流跡』が目にとまった。「ドゥマゴ賞」と「堀江敏幸」の名前が目について、ページを開いた気がする。一、二頁ほど繰って、面白いというか、また詩的なのが顕れたな、と考えつつ、今そんなに金がないから良いや、と弁解して買わなかった。 

 これは買うしかないと、買って読んだら、また、しまった、と呟いてしまった。先を越されたからである。 

 自分は小説を書くとき、一つのルールを自分に課した。それは「私」と書かない一人称視点の小説を作ろうと云うものだった。私は「私」が嫌いだった。日本語は別に「私」と書かなくても文章が書けるのだし、わざわざ書かなくても書けるのなら、ひとつ書いてみようと思ったからだ。 


 しかし、一度書き出してみると、如何に「私」という言葉が出しゃばってくるかが分かった。どうしても「私」が欲しくなるのである。そうこうして書こうとしても、ちぐはぐな文章となり、自分にはそれが向いていないのかもしれないと思って、そのルールを取っ払った。 

 そして、『流跡』を見てみれば、それが出来ているのだ、しかも当たり前かのように、自然と。 
 うらやましい、と思う。そして、彼女の言葉に驚く。 


 しかし、それでも、自分が『私』と書かない小説を書くとすれば、朝吹さんのようにはならないと思う。それは自分が朝吹さんのかくものよりももっと静謐なものを求めており、固く、揺らぎのない文章を求めているからだ。そしてそこには滑稽も含む。 
 見れば、同い年だという。悔しい、方向性が似ている、でも、似ているけれども、同じではない、まだ自分は書ける気がするという、どうしようもない負けん気を抱いて、昔書けなかった作品をまた書いてみたい気持ちを持った。

2011年1月10日月曜日

笹井宏之『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』

 死という現象は作品にとっては付加価値となるのが、芸術のどろどろした側面とでもいいましょうか、例えば私が死にまして、なにやら作品集が出たら、死人に口なし、相手も死んだ野郎を悪く云うと体裁が悪いから何も言えなくなる、そんなんでええことばかり云ってもらえるのでしょうが、死ぬ前にちゃんとそんなことをしてくれるな、だめならだめと云ってくれ、と遺書に残しておきたいですね、というか、この言葉はすでに遺されているので、見た人はそう思っておいてください。 
 さて、いつものように近所の書店に行き、当てもない買い物をしていたとき、レジの前で平積みされている中に見つけたこの本を読んだとき、私はこころをぐいと持って行かれるような気持ちになった。痛いのである。その透明な言葉に私の欲していた世界を見出したからだ。 
 思わず、買ってしまったその本を、私は部屋で一人読んでいた。始めの一首がこれである。 

 えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい 

 思わず口ずさみたくなる言葉、この人の感性は私に近いのだと感じた。 
 そして、私は読み終わり、著者の略歴を見た。この人は二年前にインフルエンザで死んだのだということを知った。1982年であるから、今の自分と同い年である。 
 私は読み終わったときにこの『死』を目にした。だから、この気持ちに『死の装飾』は無い。むしろ、遺された言葉のみずみずしさは『死の装飾』をはじき返していることを知った。私にはまだこのような言葉のみずみずしさを手に入れることができないだろう。むしろ、石、そう化石である。土に埋もれた死体を掘り起こして、つなぎ合わせる作業しかまだ私には出来そうにない、みずからの生きた肉をそぎ落とし壁に貼り付ける行為をまだ恐れている。 

 (ひだりひだり 数えきれないひだりたちの君にもっとも近いひだりです) 
 ゆつくりと私は道を踏みはづす金木犀のかをりの中で 

 むかし、私もこのような言葉を使ってみようと、なまくらなナイフで私の鳩尾を突いてみたが、あまりに痛くて、どうしようもなく手から離れ落としてしまった。

2011年1月7日金曜日

ベルンハルト『古典絵画の巨匠たち』

日本ではあまりにもベルンハルトがプッシュされない現実を嘆いて、皆さんにベルンハルトを読んでもらいたい、わたしは書き記す、なにゆえ彼は日本で受けないのか、むしろ彼の呪詛は日本人には馴染み深いはずであるのだ。しかし、と私は私に言う、その呪詛を受け取ろうとして彼の小説を読むと、途端文体が邪魔をする、と私は思った、この異様なまでの入り組んだ文章と、改行のなさ、彼はまったく改行をしないのである。すくなくとも、自伝五部と呼ばれる作品以降では。しかしそれは、と考えた、彼の内的独白と完全に寄り添って話された一つの祝詞、あるいは呪詞であるといえるだろう。その祝詞は「語られる」のではない、「書かれる」、その事実を私たちは真摯に受け取らねばならない。この作品の場合、「アッツバッハーは書き記す」という箇所がある。それによって、私たちはこの小説の自己完結性を享受することだろう、と思った、そしてそれにより私たちと彼の間の断絶を感じることだろう。私たちはその完結した世界の中で「語られる」のを「語る」人に「語られる」呪詛をその身に受けつづける様を見ることになる。呪詛の相手は彼のまわりの人々、つまりオーストリア人に向けられる、そしてそのオーストリア人を作り上げた国家、文化、宗教への執拗なまでの罵詈雑言、さらにはドイツ語圏という大きなくくりにまでその嫌悪が行き渡るのである。ベルンハルトの小説にはこの嫌悪の感覚が至る所に見られる、と私は私に言う、しかしそれはドイツ語で書かれ、何より彼ら登場人物もベルンハルト自身もオーストリア人である。呪詛は常に自分自身にも浴びせかけられている、この絶望を感じよ、と私は命令する、その呪詛をあなたも浴びよ、そして客席から舞台を見ていただけのその身を舞台上へ、舞台裏へ押しやるのだ、と私は私に言う。ベルンハルトは常に、安楽椅子に座る私たちを無理やりにでも立たせて、世界の舞台裏を覗かせようとするのである、とわたしは書き記す。

2011年1月3日月曜日

中勘助「銀の匙」

 帰省の電車の中、一冊の本を読んでいた。今まで、読もう読もうと思っていてそのままにしておいた中勘助の『銀の匙』である。どうにも嫌いではないのだけれども、腰を落ち着けて読みたいとおもっていたら、忙しさや楽しさに紛れて、ずっと前に買ったにもかかわらず最初の十ページあたりでいつもやめてしまい、うちにある本の山(その名の通り)の中に紛れていたが、帰ったときに読むのを選ぶときに気まぐれにえらんでもってきたら、今の心境とあったのか、すっと読めた。 
 前半が良い。後半も悪くはないけれど、青年になってしまってはこの話は台無しの感はある。みんなが誉めそやしたせいで勉強する気を起こさずにきたために私は出来の悪い子のままで今まで来てしまったのだ、と家族を憎み泣きわめく場面が特に良い。なんと身勝手な、しかしそれだから子供なのだ、と思わなくもない。こういうある種の論理的な自己中心的態度というか、そういったのは意外に大人になっても残っているものだ。かくいう自分もこの気性が激しい方で、そうした態度を露わにすることがしょっちゅうである。しかし、大人になって慎みも覚えたので、自分の論理が可笑しいことくらいわかってもいる。そうした、内面のちぐはぐした場合の行動の滑稽さに、しばしば恥ずかしくなることもある。こうした気性は治らない、多分自分は治すつもりもない。 
 夏目漱石が褒めたというのは有名な話であるが、この『銀の匙』をどう読むかは少し迷う。小説、だろうか? どうもそう読めない。これはあくまで「散文」としてしか読むことのできないものだ。その「散文性」のためにこれを他の小説などと比べることができなくなってしまっている。小説を比べるなんてことはすでにナンセンスなのかもしれないが。 
 筋という筋のない短文の寄せ集めであるこの作品をつなげているものは何なのだろう、と考えてしまう。「銀の匙」というタイトルにある、その銀の匙は最初に登場したきりあとは姿を見せない。プルーストのプティト・マドレーヌと同様、記憶を呼び覚ますのにこんな素晴らしいものは無いのに、それを贅沢に使っている。そう、呼び覚まされた記憶。これはまさに中勘助の「失われた時を求めて」である。いや、プルーストは「失われた時を求めて」などと哲学的な詩的なタイトルにすべきではなかった。ただ、「プティト・マドレーヌ」と書けば良かったのだ。