芥川賞のニュースが出たのを聞いて、W受賞やら何やらが話題になっているのを知ってもどうとも思わない自分が、朝吹という名前を見たとしても、また知らん名前だという風にしか思わなかった。しかし、その後、この人を調べたときに私は、しまった、とつい口走った。この人の本を一度手に取ったことを思い出したからだ。しかも出たばかりの頃に。
住んでいる近場ではいちばん大きな書店で本を探していたときに『流跡』が目にとまった。「ドゥマゴ賞」と「堀江敏幸」の名前が目について、ページを開いた気がする。一、二頁ほど繰って、面白いというか、また詩的なのが顕れたな、と考えつつ、今そんなに金がないから良いや、と弁解して買わなかった。
これは買うしかないと、買って読んだら、また、しまった、と呟いてしまった。先を越されたからである。
自分は小説を書くとき、一つのルールを自分に課した。それは「私」と書かない一人称視点の小説を作ろうと云うものだった。私は「私」が嫌いだった。日本語は別に「私」と書かなくても文章が書けるのだし、わざわざ書かなくても書けるのなら、ひとつ書いてみようと思ったからだ。
しかし、一度書き出してみると、如何に「私」という言葉が出しゃばってくるかが分かった。どうしても「私」が欲しくなるのである。そうこうして書こうとしても、ちぐはぐな文章となり、自分にはそれが向いていないのかもしれないと思って、そのルールを取っ払った。
そして、『流跡』を見てみれば、それが出来ているのだ、しかも当たり前かのように、自然と。
うらやましい、と思う。そして、彼女の言葉に驚く。
しかし、それでも、自分が『私』と書かない小説を書くとすれば、朝吹さんのようにはならないと思う。それは自分が朝吹さんのかくものよりももっと静謐なものを求めており、固く、揺らぎのない文章を求めているからだ。そしてそこには滑稽も含む。
見れば、同い年だという。悔しい、方向性が似ている、でも、似ているけれども、同じではない、まだ自分は書ける気がするという、どうしようもない負けん気を抱いて、昔書けなかった作品をまた書いてみたい気持ちを持った。
0 件のコメント:
コメントを投稿