帰省の電車の中、一冊の本を読んでいた。今まで、読もう読もうと思っていてそのままにしておいた中勘助の『銀の匙』である。どうにも嫌いではないのだけれども、腰を落ち着けて読みたいとおもっていたら、忙しさや楽しさに紛れて、ずっと前に買ったにもかかわらず最初の十ページあたりでいつもやめてしまい、うちにある本の山(その名の通り)の中に紛れていたが、帰ったときに読むのを選ぶときに気まぐれにえらんでもってきたら、今の心境とあったのか、すっと読めた。
前半が良い。後半も悪くはないけれど、青年になってしまってはこの話は台無しの感はある。みんなが誉めそやしたせいで勉強する気を起こさずにきたために私は出来の悪い子のままで今まで来てしまったのだ、と家族を憎み泣きわめく場面が特に良い。なんと身勝手な、しかしそれだから子供なのだ、と思わなくもない。こういうある種の論理的な自己中心的態度というか、そういったのは意外に大人になっても残っているものだ。かくいう自分もこの気性が激しい方で、そうした態度を露わにすることがしょっちゅうである。しかし、大人になって慎みも覚えたので、自分の論理が可笑しいことくらいわかってもいる。そうした、内面のちぐはぐした場合の行動の滑稽さに、しばしば恥ずかしくなることもある。こうした気性は治らない、多分自分は治すつもりもない。
夏目漱石が褒めたというのは有名な話であるが、この『銀の匙』をどう読むかは少し迷う。小説、だろうか? どうもそう読めない。これはあくまで「散文」としてしか読むことのできないものだ。その「散文性」のためにこれを他の小説などと比べることができなくなってしまっている。小説を比べるなんてことはすでにナンセンスなのかもしれないが。
筋という筋のない短文の寄せ集めであるこの作品をつなげているものは何なのだろう、と考えてしまう。「銀の匙」というタイトルにある、その銀の匙は最初に登場したきりあとは姿を見せない。プルーストのプティト・マドレーヌと同様、記憶を呼び覚ますのにこんな素晴らしいものは無いのに、それを贅沢に使っている。そう、呼び覚まされた記憶。これはまさに中勘助の「失われた時を求めて」である。いや、プルーストは「失われた時を求めて」などと哲学的な詩的なタイトルにすべきではなかった。ただ、「プティト・マドレーヌ」と書けば良かったのだ。
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