2011年1月7日金曜日

ベルンハルト『古典絵画の巨匠たち』

日本ではあまりにもベルンハルトがプッシュされない現実を嘆いて、皆さんにベルンハルトを読んでもらいたい、わたしは書き記す、なにゆえ彼は日本で受けないのか、むしろ彼の呪詛は日本人には馴染み深いはずであるのだ。しかし、と私は私に言う、その呪詛を受け取ろうとして彼の小説を読むと、途端文体が邪魔をする、と私は思った、この異様なまでの入り組んだ文章と、改行のなさ、彼はまったく改行をしないのである。すくなくとも、自伝五部と呼ばれる作品以降では。しかしそれは、と考えた、彼の内的独白と完全に寄り添って話された一つの祝詞、あるいは呪詞であるといえるだろう。その祝詞は「語られる」のではない、「書かれる」、その事実を私たちは真摯に受け取らねばならない。この作品の場合、「アッツバッハーは書き記す」という箇所がある。それによって、私たちはこの小説の自己完結性を享受することだろう、と思った、そしてそれにより私たちと彼の間の断絶を感じることだろう。私たちはその完結した世界の中で「語られる」のを「語る」人に「語られる」呪詛をその身に受けつづける様を見ることになる。呪詛の相手は彼のまわりの人々、つまりオーストリア人に向けられる、そしてそのオーストリア人を作り上げた国家、文化、宗教への執拗なまでの罵詈雑言、さらにはドイツ語圏という大きなくくりにまでその嫌悪が行き渡るのである。ベルンハルトの小説にはこの嫌悪の感覚が至る所に見られる、と私は私に言う、しかしそれはドイツ語で書かれ、何より彼ら登場人物もベルンハルト自身もオーストリア人である。呪詛は常に自分自身にも浴びせかけられている、この絶望を感じよ、と私は命令する、その呪詛をあなたも浴びよ、そして客席から舞台を見ていただけのその身を舞台上へ、舞台裏へ押しやるのだ、と私は私に言う。ベルンハルトは常に、安楽椅子に座る私たちを無理やりにでも立たせて、世界の舞台裏を覗かせようとするのである、とわたしは書き記す。

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