2011年7月27日水曜日

あなたのことばは間違っている





あなたのことばは間違っている 

私がそれを叫んだとして 

私のことばはそれ以上に間違っている。 

あなたは言葉に間違い 

言葉はあなたを間違う。 


私たちは言葉を殺さなければならない 


無限に増え続ける彼らのために 

なぜなら、彼らの血こそが 

彼らの母乳であり 

羊水であるのだから。 

あなたと私のことばはそうして 

間違っていく

あなたは叫ぶのですか?


あなたは叫ぶのですか? 

どこに向かって? そこに向かって。 

いえ、あなたに聞いているんです。 

あなたに向かって? あなたに。 



あなたにいるわたしは元気ですか? 

わたし? わたしですか? わたしは元気です。 

いえ、あなたに聞いてはいません。 

わたしに聞いてます。 わたしに。 



わたしがあなたと口にするたびに 

あなたが生まれます。 

なのにあなたがわたしと口にしても 

私は生まれない。

2011年7月3日日曜日

カフカの翻訳「木々」

原文
Die Bäume

Denn wir sind wie Baumstämme im Schnee. Scheinbar liegen sie glatt auf, und mit kleinem Anstoß sollte man sie wegschieben können. Nein, das kann man nicht denn sie sind fest mit dem Boden verbunden. Aber sieh, sogar das ist nur scheinbar.

翻訳
木々

私たちは雪の中の木の幹みたいなものなのだから。その滑らかな上に乗っかっているように見えて、ちょっと押したら取れて押せるように思えるけれど。いや、そんなことは出来はしない、地面としっかり繋がっているのだから。でも見てみなよ、それさえもそう見えるだけのことなんだ。


自分の思考に否定を重ねるような文章。最初のDennのために、何か話の途中を抜き出したような印象を受ける。私たちと「雪の中の木の幹」を同じと見ているが、後に続く言葉は、その「雪の中の木の幹」に対する言葉であり、一体それが「私たち」のどのような部分を指しているのか、分からない。カフカの作品の中でも生前に発表されたこの作品、初期に位置している。短いながらも、カフカらしさが詰まっている。「そう見えるだけ」、カフカほど「見ること」を疑った作家がいるだろうか。

まどろむ

 時計の針が部屋の中でひどく響くのだった。そのためにうまく寝られず、目を閉じても、周囲への感覚が鈍くならないで気疲れして目を開けると、霞む視界に浮かぶ文字盤を秒針ばかりが回っている。まだ五分も経っていない。夜の長さ、特に目が覚めているときの夜の長さは有限であるからこそ、永遠に続くように感じられた。床についたのは一時を過ぎていたはずだから、もう三時間もすれば空が白み、窓から透ける光で、夜を乗り越えるのだと鼻辺りまで身を包んだ布団のほこり臭さをかぎながら、目を閉じてはいられなくなるから、早く眠りにつかなければならない。それなのに眠りはいつまでも向こうから来る気配がなかった。こういうときについ枕もとにある本を手に取り、頭を疲れさせようとするけれども、大抵は失敗に終わり、余計に冴えてしまう。小説に出てくるひげ剃り用かみそりや、論文の途中に出てくる何を表わすのか掴めない数式が頭をぐるぐるまわるからだ。時計の秒針よりも速く、速く。頭の中で回る心像のひとつひとつはその時の自分にとってもっとも意味の無いものであり、もっとも遠いものであったはずなのに、夜という時間と寝るための場所によって、それらは近くなる。