2012年11月7日水曜日

短歌六首



 ときどき短歌の限界を考えて見る。表現としての限界ではなく、短歌が短歌として成り立ちうる限界。
 たとえば、五七五七七を崩していき短歌とよべるぎりぎりを考える。
 そんな六首。



 私のとなりで眠る少年はやすやすと明日の私を殺すのだった

 唇の隙間から見える鋭い歯によつてのどもとを食いちぎれ食いちぎれ

 背丈の変はらぬ二人で並び歩きし橋の上鋭き風を身に受けつつ

 写真をとられるのをあれだけ嫌がつてゐた君の顔を写したものは一枚もない

 来年の干支が何か分からないので年賀状の送り送られが無いのに気付く

 肺碧き少年ルナアルの左目を触る彼の指は確かに優しげだつた

2012年11月1日木曜日

作品は読者のモノ?


※海猿の作者佐藤秀峰さんに対して「売ってもらったクセに思い上がるな!」といったバッシングがTwitterでなされているそうです。詳しくはニュースを見て下さい。



「作者の死」によって、作品を読者のものにした人にロラン・バルトという人がいます。 
 なので、自分はこういう「作品は読者のモノ」という発言を聞くと、バルトを思い浮かべるのですが、じゃあその意見に賛成かというと、そうじゃないし、なによりもまずバルトが言ってる「作者の死」とこうした意見がずれている。バルトにおいて「作者の死」を告げたのはあくまで「読み」の空間の中でのことだからです。 

 「読者の誕生は、『作者』の死によってあがなわれなければならない。」 

 と確かにバルトは言っているのですが、それは当時の文学研究が「作者」という存在に縛られていて、しかし学者たちの言う「作者」は結局学者が作り上げたモノでしかなく、そんな「作者」に「読むこと」を縛られる必要は無い、という意味で「作者」に死を告げたのです。 
 国語の授業における「このときの作者の気持を考えなさい」に対して、「そんなこと分かるか」という気持、その気持が「作者の死」であって、ここでいう「作品は読者のモノ」という考えとはちょっと視点が違います。 

 この場合、大事なのは「作品」をどう捉えるかということなんだと思います。 

 思うに、作者である佐藤さんの言っている「作品」こそが「作品」なのであり、こういうバッシングをする人たちのいう「作品」は「商品」です。 
 「商品」に関していえば、「所有者」というのは大事な要素であって読者が「私のモノ」ということは簡単でしょうし、「売ってもらった」という言い方は間違ってはいないと思います。 
 しかし「作品」はどうだろうと考えます。創作物としての「作品」、「作られたモノ」としての「作品」の所有者は果たして読者なのでしょうか。たとえ作者の手を離れたとしても「作品」がどう扱われるかを決めるのは最終的には作者ではないでしょうか。せめて作者が生きている限りはそうだと思います。 
 公表された時点で「作品」は共有されると考えるのは、ニコニコ動画やYouTubeといった動画サイト、pixivといったイラストサイトの理念です。しかしその共有がいまや暴力と化しているのではないか、自分はこのニュースを見てそう思います。 
 そういう意味で佐藤さんのいう「作品」観に賛成しますし、バッシングを言う人の言葉にはすこし疑問符が付いてしまうのです。