2013年7月3日水曜日

雑感



 グーグルがカフカ生誕130年でやっているみたいですが。

 私としては、それはいっこうに構わないのです。それによって、皆がカフカについて興味をもってくれれば言うことはありません。いまでは、なんでしょう村上春樹が「海辺のカフカ」を書いて以来、ハルキ=カフカというふうなイメージなのでしょうか、まあ、それでも構いません。だって、人には必ず何かしらの源流があって、でもそれはあくまで源流でしか無く、その源流の流れが一つとは限らないのですから。それに、その流れが本当に一つの源流から成り立っていることはまあ少ないのですから。多分、ハルキにとってカフカは彼の流れの中で大きな源流の一つなのでしょう。そもそも、カフカ自体が源流だと考えること自体おかしなことです。彼もまた流れの一つなんですよ。

 とにかく、グーグルでこうして注目されるのは構わないことです。お前はカフカの何だと言われても、ただ読者の一人だ、しかもまだ近づけない読者の一人だとしか言えません。それくらいに、カフカは遠い。何かしらカフカについて語るのを見ると、カフカの何々という作品は……、というふうに語る事をしないで、カフカは……、と語っているのはどうなんでしょう。彼らは多分、カフカの作品を読んでいないように思うのです。いや、多分「変身」やら「審判」やら、「城」、もしかして「巣穴」なんかもそのページを繰って書かれている言葉に目を通したかもしれません。だけど、それだけじゃありませんか。彼らはあくまで日本語(あるいは、その人の母語で、もしかしたらドイツ語)でそれを読んだだけで、目の前で座って、子供のような目で観察するカフカというものを見たことはないのです。なのに、カフカは、だなんて、ねえ。もちろん、私だって、会ったことはありませんし、今後も会えません、当たり前ですが。
 なんで、私たちには作品しか残されていません。でも、その作品自体、本当に読んでいますか? それは、暗記しろと言っているのではないですし、分析や批評をしろと言っているのでもないのです。ただ、読んでますか、と言いたいのです。
 もしかしたら、私も、読んでいるとは言えないのかもしれない。ただ、ページを埋める言葉を目で追っているだけかもしれない。語れないですね、やっぱり。
 ただ、カフカの作品の表面、いや、実際触れているという感じもないですね、もっと離れて周囲くらいなら、ぽつぽつ話せそうな気がします。私が話せるのはそれくらいですね。なんで、カフカの作品は、と言える人、いや、別の作家でも良いです、それこそ村上春樹でも、そうした事の言える人に言いたいんです。

「あなたは、何を語っているのですか?」

 グーグルの話から、遠くなってしまったような気がします。
 とりあえず、これだけは言わせて下さい。
 グーグルさん、あのロゴだけはいけません。いいですか、あのロゴだけはいけません!