2014年11月17日月曜日

ドイツ語で読む『変身』 その1


 ○はじめに
 
 自分の勉強のために独文和訳を毎日続けようと思った。
 何が良いだろうと思って、ここは一つ『変身』を訳してみようと決めた。今まで、短いものは訳してみたけれど、この出版された話の中でもっとも長い(それでも3つの長編と比べればずっと短い)話を最後まで翻訳することは、たぶん、ただ自分のためなんだろうと思う。
 なぜか。
 そもそも、『変身』は翻訳されつくしている、というのが第一。そして、自分が訳したものが他とそう変わることが無いだろうというのが第二だ。それに、ドイツ語を二三年ほどやれば、それほど読みにくいものではないカフカ作品は読めるだろうし。だから、これは誰かのために訳すものにはならない。
 それでも、こんな風にこっそりとブログにあげてみるのは、もしかしたら、そんなふうに翻訳されたものでも誰かの役に立つんじゃないか、と思うことがあるからだ。(ひとつの自己満足。)
 今までの訳には自分の感想を書いたりはしなかった。別に必要ないと思ったし、そもそも翻訳の中には翻訳者の考えが張り付いて離れないものだ、と思っているからだ。今回は、そう思う中で、忘備録代わりに思ったことも付け加えようかと思った。そんな次第である。

 流れはドイツ語→単語→日本語訳→感想、という順番で書いていく。できれば1パラグラフごとにしようと思うけれども、あまりに長ければ、切るかもしれない。単語については自分が気になった単語だけを書き抜いていくつもりだ。意味と言うよりも、その単語に関して考えたこと。文法的なところは同学社の対訳シリーズなどを読む方がずっと良いだろう、自分が言うことでは無い。

 テクストはSuhrkamp社のオリジナル版のタッシェンブーフを使ったが、Gutenberg Projektから本文を持ってきた。わざわざ打ち込む必要がないのはとても楽だ。
 その他、参考にしたものは随時書いていくつもりだ。

・辞書
 郁文堂 独和辞典
 小学館 独和大辞典
 Leigensheidt Deutsch als Fremdsprache
 等々

・翻訳
 新潮社 カフカ全集 第一巻 川村二郎 訳
 白水社 カフカ・コレクション 変身 池内紀 訳
 ちくま文庫 カフカ・セレクション Ⅲ 浅井健次郎 訳
 同学社対訳シリーズ 変身 中井正文 編



 ○本文 第一段落 Ⅰ 

Als Gregor Samsa eines Morgens aus unruhigen Träumen erwachte, fand er sich in seinem Bett zu einem ungeheueren Ungeziefer verwandelt. Er lag auf seinem panzerartig harten Rücken und sah, wenn er den Kopf ein wenig hob, seinen gewölbten, braunen, von bogenförmigen Versteifungen geteilten Bauch, auf dessen Höhe sich die Bettdecke, zum gänzlichen Niedergleiten bereit, kaum noch erhalten konnte. Seine vielen, im Vergleich zu seinem sonstigen Umfang kläglich dünnen Beine flimmerten ihm hilflos vor den Augen.

 ○単語
Als 過去のある一点を表す。辞書には「一回きりのこと」とある。

erwachte<erwachen 目覚める

ungeheuer 途方も無い大きさ。un-が付いているのでgeheuerというのもあるのかなと調べてみたら、そちらは熟語などでまれに使われる程度らしい(nichtとともに、不気味な、気味が悪い)。どういう語源なのだろう。

Ungeziefer 人間に害を与える動物に使う言葉、ここでは虫なので『害虫』とした。「よろいのようにかたい背中」と書いてあるのでゴキブリみたいな甲虫を想像してしまうが、「たくさんの脚」というところから、むしろ昆虫というよりは節足動物(ムカデやゲジゲジ)なんじゃないだろうかと思う。6本がたくさんというのなら、昆虫でも良いのかもしれないが、そうすると「揺らめく」という形容詞が合わない気がする。

wenn 反復する事実を表す。最初にあるalsが一回性のものに対して、こちらは反復性をもつ。辞書の説明を受け入れると、ザムザは「いつものように頭をあげた」のだろうか。そっちの方が、ザムザが自分を虫として認識しきれていない雰囲気がでる気もする、が、今回はぼんやり訳した。

hob<heben 持ち上げる。次の段落にでてくる写真の中の婦人も毛皮のマフを「持ち上げている」。

Versteifung 自分の持っている辞書(郁文堂 独和辞典)には「支えを入れて補強するversteifen」とある。他の翻訳では虫の腹などの節の部分として訳しているので、自分もそうした。

Niedergleiten 辞書にない複合語。下に滑り落ちること。ドイツ語はどうしてこう、動詞の名詞化が多いのだろう。

bereit 用意の出来た。Niedergleitenを「用意している」。日本語にはない表現法だ。

in Vergleich zu 3格とともに、~に比べて。

kläglich みじめな、貧弱な。この言葉が「たくさんの脚」を修飾しているせいで、普通の昆虫を想像できないし、きっとムカデみたいに、ほんとうにたくさんの、数えることの面倒なくらいに多い脚なんだろうと想像する。

flimmerten<flimmern 炎などが揺らめく。この言葉もそうだ。確かに昆虫の脚を見ていると、規則があるのだけれど、それらがあまりに微妙にずれていて不安定さを醸し出す。でもムカデなどはそれよりずっと規則的に脚を動かすのだろう、そうするとここはやはり現実の虫とはどこか似ても似つかない架空の虫を想像するのが良いのかもしれない。


 ○訳

 グレーゴル・ザムザは或る朝不穏な夢から目覚めると、自分がベッドの中で一匹のとほうもない大きさをした害虫へ姿を変えていることに気付いた。彼はよろいのようにかたい背中の上で仰向けになっており、少し頭をあげると、丸く、茶色の、弓形をした節に分けられた腹の、膨らんだところに毛布がすっかりすべり落ちそうになりながら、かろうじてとどまっているのを見た。たくさんの、その他の部位の大きさに比べるとみじめで細い脚がもたもたと彼の目の前で揺れている。


 ○書き出しから漂う異様さ。

 有名な書き出しであり、すこしでも文学に興味のある人間なら、一度は見たことがあるかもしれない。色々翻訳を見てみると、ドイツ語にあるニュアンスが少し抜け落ちているのがわかるが、それは仕方の無いことだろう。それを訳してしまうことで日本語としておかしくなるよりかは、あくまで自然な日本語を選択するほうがよい。
 たとえば、最初の「不穏な夢 unruhigen Träumen」はドイツ語では複数形をとっている。ということはザムザは、不穏な夢を「一つ」見たのでは無く、いろいろな夢を見た果てに目覚めているということになる。だからこそ、彼は自分が害虫に変わっているのも、夢の続きとして最初は感じており、まだこれが現実だとは思っていないのだ。しかし、それが夢でないと分かったところで、ザムザはどこか他人事のようにこの事態を受け止めている。単語のところでも書いたが、wennを反復的事実として考えると、彼は毎朝起きるたびに頭を少しあげている、その毎日の動作をその朝も行ったことになる。異様な事態が未だに日常を侵食し切れていない場面として読むことが出来るだろう。ただ、それが翻訳に出ていないとしても、ここに描かれている異常さは少しも減じたりしない。それは何より、変身したことで最も当惑するべき本人が、あまりにも冷静に自分の姿を観察しているからだ。
 腹の形状、頼りない無数の脚、そうした中に挟まれた毛布の描写は注目するに値する。普通の作家ならば、この異様な事態の異様な部分だけを描いて満足するだろう。しかし、カフカはあくまで毛布にこだわるのである。ほとんど滑り落ちそうでありながら、あやうくとどまる毛布のほうがザムザにとって心配事であるかのように。
 たぶん、グレーゴル・ザムザの意識はまだもうろうとしているのだろう。

 

2014年10月13日月曜日

自分への贈り物。Cleo Skribent ebonite purple

 半ばは惚れて、半ばはそそのかされて、新しく買うことになった。東ドイツの万年筆。もとは民間の会社であったのが、東西分裂により国営になり、統合後は再び民営に戻ったらしい。ハンドメイドであることを誇りにしており、「Made in Germany」ではなく、「Hand-Made in Germany」を掲げている。今回購入したエボナイトも、最終工程で八時間かけて手磨きされているとのことだ。
 あまり情報がないので、どういう書き味かわからないのが、ちょっと困ったが、しっかりした販売店が扱っているのだから、悪いということはないだろうと購入を決意した。



 結果はと言うと、満足のいく買い物だったといえる。最初書いたときは思っていた字幅と違い細く感じられたが、それはロディアに書いたかららしく、普段使いのライフに書いてみると、思っていた字幅になった。やはりこういったところは万年筆に限らず筆記具を買うときに難しいところだ。かならず、店頭で買うときには、自分が普段使っているのーとを持って行くことが大切だと言うことを理解した。

 軸の形も個性的である、ペン軸自体は正11角形であり、キャップは口の方から頭に向かって、その正11角形を(角を残したまま)楕円に押し広げたようになっている。このデザインセンスは日本には無い。というよりも日本は高級な商品にもっとモダン・デザインを取り入れるべきだと思うのだけれど。もちろん、ものはすばらしいが。

 ちなみに今回はインクも普段使わなかったものを購入してみた。ローラー&クライナーのヴァーディグリースである。
 はじめは緑がかった暗い青だが乾くとブルーブラックになる。自分としては、もうすこし緑が残るくらいが好きなのだけれども、最近はあまりない顔料インクでの色のレパートリーの多さが好印象で、これから少し集めてみたくもある。

 
 万年筆が最近増えてきたので、機会があれば、すこし喋ってみたい気もする。

2014年6月21日土曜日

カフカ「橋」 改訂






 身がこわばり、寒い。私は橋だった。底知れぬ深い谷の上にかかっており、一方に爪先を、もう一方に手を突き刺して、ぼろぼろとくずれる粘土質の土にしがみついている。コートの裾が風になびき、底の方ではニジマスのいる凍える河がうなりをあげていた。こんな高く道も無いようなところに迷って来る旅行者は一人もいないので、橋が地図に描かれることはない。――だから、私はこうして待った。待たねばならなかった。崩れて落ちたりすることがなければ、一度建てられた橋は、橋であることを辞めることは出来ないのだ。
 やがて夜になった。――これが最初の夜なのか、千度目の夜なのか、私には分からなかった――思考はいつもからまり、同じところをぐるぐる回っていた。夏の夜になり、川がこもった響きを立てるころ、人の足音が聞こえた! こっちへ、こっちへと。――手足を伸ばせ、橋だろう、身を正せ、橋桁には手すりが付いていないのだから、自分に身を任せてもらえるようにしろ。頼りない足取りを自分でも気付かないうちに正そうとして、それでもふらついてしまったなら、お前は自分を気付かせるんだ、そして山の神のように彼をむこうの地面に放り投げてやれ。
 彼はやって来ると、先に鉄の付いた杖で私を叩いて調べ、私のコートの裾を持ち上げると直してくれた。毛の太い、私の髪に杖を突き刺し持ち上げたかと思うと、中へ差し込んだまま、おそらくあちこちを見回しているのだろう。すると――彼がこれから山を越え谷を越えていくところを夢想しているところだった――彼は二本の足をつかい私の身体の真ん中で飛び跳ねたのだ。激しい痛みに身震いし、一体何が起こったのか分からなかった。誰だ? 子供か? 幻覚か? 追いはぎか? 自殺者か? 誘惑者か? 破壊者か? 私は躯をひねった、彼を見るために。――橋が躯をひねる! 実際にはひねることなく、落ちていた。私は落ちた。そしてもうばらばらになっていた。鋭い小石が私に刺さる。その小石は、激しく流れる水の中から、私のことを穏やかに眺めていた。






 やたらと閲覧数が多いカフカの「橋」、正直訳がひどいから引っ込めたいと思うのだけれども、一応そのままにしておく。その上で、訳を少しずつブラッシュしていくことにしよう。全体的な雰囲気はそのままだけれども、細かなところを修正して文章を整えてみた。

雑記 その1

 空の雲あいが落ち着かず、突然の雨に見舞われることも多々あるから、外に出る前に上を見るくせがついてしまった。それで、今日は大丈夫だろうと、考えていると、夕方辺りにぽつぽつ降るのだから困る。特に洗濯物がたまって、せっかく洗ったとしても、部屋の中で干すから、独特の饐えたような嫌なにおいが鼻をつく。なかなか時間がとれず、夜中に洗濯機を回したりするせいで、部屋が少し締めっぽくなり、そんな空気の中で眠ると、どうやら夢も湿っぽくなるらしい。

 夢と言っても、何かしら意味を持ったような夢、夢の解釈という俎上に載せて耐えるようなものでなく、何か周りの刺激によって偶然浮かびえた印象のつぎはぎでしかない。ただ、フロイトも言う、たとえ外的刺激によって、それに類する夢を見るといって、なぜその夢の像はそうでなければならぬのか、と。こういうところにフロイトの発想のおもしろさや鋭さを感じるのであるが、たしかに、こたつに入って眠り、砂漠の夢を見たとして、こたつの熱さが、砂漠を想起させていることは間違いないが、なぜ砂漠なのか、夏の山、夏の海ではなく、なぜ砂漠なのか、それを説明しようと考えを巡らすことに「あり得ない」の一言で一蹴するのは、どうも考えを放り出してしまっているように思えてしまうから、フロイト先生がどう考えているのであれ、ある種多くの人にとって偶然としか思えないものに論理的なつながりを説明しようと努めてみる。

 続く

2014年6月15日日曜日

語学を「嗜む」ということ


 大学でドイツ語を初めて以来、一〇年が経ち、自分の中で「外国語と暮らす」ことは生活の一部になっている。それでいながら、いっこうに外国そのものに興味をもつことが無いのは、自分にはことばというものばかりが目の前にあり、そのほかの、とくに国といったものがあまりに遠く、触れようのないものであるために、たとえばその国の人が何を食べどのような家に住むのかを知るのと、隣三軒の人々が日々どのように暮らしているかを知るのとが、たいした違いが無いように思えてしまうのと同じで、興味の無さそのものに原因があるのではないかと考えている。つまり、どんなに近くても、知りたいと思わなければ遠いのであり、遠さそのものが遠い近いを決めるとは限らない。

 だからといって、言語学者になりたいなどと思ったことはついぞ無く、やはり言葉を「通して」なにかを知ることに楽しみがあるのだけれど、自分はそれがより個人の方へ向いているのも、外国というものへの興味の無さに関係しているのだろう。

 たとえば、ドイツ語はカフカ、フランス語はアンリ・ド・レニエなどの世紀末の文学者、ポルトガル語はフェルナンド・ペソアなどなど。
 よく、作家の生まれ故郷へ行くことで作家のことを知った気になる人がいるけれども、あれはいまいちぴんとこない。彼らは地平という横の向きばかりで同じところに立っていると考えるようだけれども、時間という縦の軸から見れば著しくずれているではないか。しかも時間を同じくすることは不可能ではないか。
 出不精の戯言と思う人もいるだろうけれど、言葉のみで向き合うからこそのおもしろさというもの、想像の膨らみ(あるいは、誇大妄想)に耽る喜びを忘れることは、なんだか頭の中にある泉を枯らしてしまうことにつながるのではないだろうか。

 ある意味でリアリティではなく、リアルが隣にありすぎることに、人が疲弊してしまうこと。

 確かに僕らが向き合う物は概してリアルなものだ、それは別に創作物であろうと変わりない。つまり、書かれたり、描かれたり、演じられたり、撮られたり、弾かれたり、そういったことを「されたもの」がいくらフィクションの側のものであっても、それに出会っている、対峙していること、そのものはあくまで現実のことで、僕らはその現実の中でフィクションの側のリアルを感じている、それがリアリティというものなんじゃないだろうか。

 それなのに、今はこちら(現実)のリアルをあちら(虚構)に持ち込み、あちらのリアルをこちらにもちこむことが意識されないままに行われているせいで、こちらとあちらの距離感がくるってきているような気がする。
 ぼくは現実と虚構のあいだに国境みたいなものがあるとは思わないし、そのあわいはもっとゆるやかなものだと考えている。そこにあるのはもしかしたら二色の濃淡でしかないのかもしれない。
 濃淡という、地平よりももっとセンシティブなものであるからこそ、慎重に扱うべきなのに、当たり前のように線引きできると考えているから線引きしたところの近くで混じっていた向こう側のものがすべてこちら側として扱われてしまう。灰色は無数の灰色があるはずなのに、すべては白か黒になる。

 僕らがもっと大切にしなければならないのは、リアルではなく、「リアルとの距離感」じゃないだろうか。
 言語を嗜むという行為には、その距離感を感じることの出来る可能性が含まれているように思えるのだ。

2014年1月28日火曜日

世界の外にあるものに敬意を払う。


 光文社新訳文庫『論理哲学論考』 ヴィトゲンシュタイン 丘沢静也・訳 

 今回、久しぶりに論考を読み通した。 
 丘沢訳は正直自分には合わない、と思うことが多かった。たとえば、同じ文庫から出ているカフカの『訴訟』などは、わかりやすい訳という信念と、ユーモアあふれるカフカという自身の考える像からどうしてもカフカの文章をゆがめているように思われて好きになれなかった(読みやすさでいうならこの訳かもしれないので、初めて読む人にはこれを勧めたいけれども)。今回も「言語たち」などといった抽象名詞に「たち」をつけるなどの書き方は、合わない。 

 だが、全体を通して読んでみると、岩波文庫から出ている野矢茂樹の訳よりも自分の思っているヴィトゲンシュタイン像に近いと思った。それはやはり、ドイツ文学者が訳したからというのもあると思う。ヴィトゲンシュタインはオーストリア人であり、イギリスの「ウィトゲンシュタイン」ではけっしてないのだと感じることができる。 

 ヴィトゲンシュタインの著作を読むとき、自分が思ったのは、世界の簡潔性ではなく、世界の外への「敬意」、語り得ぬものに対するその「語ることの出来なさ」を尊重することの重要性だった。(いま直感的に思ったのは、村上春樹の小説は一連としてこのことを意識しているということ) 

 カフカが何かしら「世界の中でもがくこと」を示したとするなら、ヴィトゲンシュタインが示したものもまたこの世界の中でもがくことのように思う。