2011年9月19日月曜日

ぼくと上方落語 001

 落語は好きな方で、良く聴いている。 
 とくに上方落語。 
 落語には江戸と上方(あと実は東方、つまり東北地方の落語もある。別のを想像した人、怒らないから、名乗り出なさい)があるんですが、上方は完全に笑いに特化していて、江戸のような人情話や怪談話がほとんど無い。もともと、江戸落語のネタは上方から来たものがほとんどなのだけれど、江戸に移って、人情話に変化した物がいくつかある。たとえば、「景清」などは江戸にいくと、親が子を思って願掛けを行ったことで目が治ることが強調され笑いよりも親子愛の方が強調される。 
 ぼくとしては、江戸の人情話・怪談話も好きなのだけれど、テンポの良さとか、型にはめる、という感じが好きなので、上方の方を聴く。 

 上方落語の特徴は大きく二つ。 
 一つは道具、見台と膝かくしという物を前に置く。置かないネタもあるけれども、それを使った表現方法もいくつかあり、机や橋の欄干といったものを表したりする。 
 あと、その見台の上に置くのが、小拍子と張り扇というもの、小拍子は手の中に収まってしまうくらいの小さな拍子木で二本一組、これで鳴り物(後で説明)に合図を送ったり、場面転換をしたりする。張り扇は講釈師がつかうような紙を巻いたものではなく、皮を張った物で、この二つを組み合わせてリズムを作り、その間に言葉を入れていく。 
 これは、もともと上方落語は外での公演を主としていた事の名残であるらしく、こうした道具を使って前を歩く客の注意を引いていたらしい。 
 自分は、あまり張り扇を使う落語は聴いていない、唯一聴いたのが「東の旅」と呼ばれるもので、この発端は上方の落語家の間ではメソッドのようなものであるらしい。 

「ようよう上がりました私が初席一番叟でございまして、……お後二番そうに三番叟、四番そうには五番そう、御番僧にお住持に旗に天蓋、ドラににょうはち影燈籠に白張、とこない申しますとこらまあ葬礼のほうで、なんや上がるなり葬礼のことを言うてえらい縁起の悪いやっちゃとおしかりがあるかもしれませんが決してそやないので、至ってげんの良えことを申しております。 
 およそ人間には三大礼というて三つの大きな礼式があるのやそうで、こらなになにかと申しますというと、祭礼に葬礼に婚礼というこの三つですな。……・」(米朝落語全集 第六巻) 

 という言葉のなかに威勢良いリズムが間に挟まり、ひじょうに音楽的な印象がある。 
 もう一つは、先ほども言った、「鳴り物」というやつでいわゆるBGMが落語の中に入る。江戸落語ではそれは無い。ある意味、耳で聞いてよく分かるのは、上方の方かもしれない。 
 たとえば、大勢で賑わって歩くときには陽気な音楽が鳴り(「愛宕山」「地獄八景亡者之戯」)、雪の降るときにはしんみりとした曲が鳴る。言葉だけでしょうぶせなあかんという人もいるだろうが、こうした他の縁者との間の取り方なども含めて生まれるのが上方落語でもあり、その魅力なのだと思う。 

2011年9月17日土曜日

ぼくのプロポ 005

 事故に遭ってから、ぼくの何かが壊れています。自転車乗って、車にぶつかり、ぽんと空を舞ったらしい、そんな勢いでぼくの何かは壊れたそうです。真っ白ななか、ぼくはまえのぼくを見た気がします、それがまえのぼくだとそのときは知らなかったけれど。 
 体を揺すられて、ぼくは戻ってきた、ようです。本当に戻ってきたのでしょうか、ただ、来た、なのかもしれません。ぷっつりと過去から断たれてしまって、そこにぼくがいたのです。ぼくは誰なんだ、と思いました。ここはどこなんだと思いました。人間であるのは分かっているけれど、なんで怪我してるんだと思いました。自分が誰かと問われ、証明
しようと思ったのに、ぼくは自分を証明できなかった。免許証ひとつ取り出せなくて、そこで動けなかった。救急車に乗って、やっと怪我してると分かって、病院にはこばれて、それが大きいのだと分かって、病室に入って、ぼくは、生きてると、分かった。 

 あ、ぼくの何かが壊れているなあ、と感じました。 

 それは記憶というものだったりしたそうで、人の名前が出てこなくなったりします。名前を確認しても、その人と何をしたりしたか、忘れたりしてます。どんな人だったかがぼんやりしてます。名前を確認して、でもどうしても他人だと思ったりします。向こうも他人と思っているみたいです、安心しました。 

 それは性格というもので、ぼくは怒りっぽくなったそうです、いや、いま思い出せる自分を考えれば、我慢していた、のであって、怒りっぽくなったのではなく、我慢しなくなっただけかもしれません。もともと卑屈だったらしい自分がより卑屈になっているようにも感じます。黙ると言うことを覚えたみたいです。 

 それは動きと呼ばれるものかもしれないから、ぼくは手をぎゅっと握ってみようとするのだけれど、怪我をして皮膚がまた生まれている所がぴりっとするから、ぼくは途端に力を抜いてしまう。強く握れないなあ、ペットボトルを開けるのに上手く力が入らないなあ、と思ったりします。今まで出来たことが上手くできないのは困るので、それは練習をしなければなりません。出来るはずのものを練習するなんて、いや、本当は出来ていなかったのかも知れません。 

 ぼくのぼくというものが壊れているなあ、と感じています。

ぼくのプロポ 004

 泣きたいのではなく、泣こうとしたいのかもしれない。手前にではなく、手の届かない所へ、それをおくのだ。 

 ただ、すでに泣いてしまったので、泣いたということが残されていて、どうがんばっても私は泣いているどまりだ。 

 泣くと言うことを、未来においてはおけず、過去に、そして現在におくことになる。 

 涙粒のこぼれたのを、拾い集めなければならない。砂に染みていくそれらを掘り出しまでして。しかし、涙粒の染みこんでいく方が早く、私は掴みきれない。そのことにまた涙を流す。 

 涙はとめどもなく溢れてくる。いつか乾涸らびてしまうのかもしれない、涙だけではなく。 

ぼくのプロポ 003

  ○ 

 ぼくはただ当たり前のことを書くだけなのだ、正確な筆記を以て。 
 その当たり前を読まない人は、ただ踊り、歌い、食物を食い、眠りを貪り、己の享楽をのみ大事としている。残念でならない、彼らのために書いた文章はすべて、彼らの尻の下に敷かれ、その汗で滲んでいる。 

  ○ 

 何を求めているのか、知らない。高い塔の上で書物に囲まれ生きる老隠者のように、ひっそりと、黙々と、知識を得る人よ。知識は、死と同時に消滅する。何のために知を得るか。 

  ○ 

 一人の狙撃手のように。言葉を狙い撃つ。若々しいのも、老いたのも、狙撃手の前では同等、そこには生か死のどちらかしかない。死の宣告もなく、殺される言葉はなるべくしてなったのか、はたまた偶然か。 

  ○ 

 どうしても生活のレベルというものは下げにくいもの。例えそれが、100円のお菓子を買わないことでも。「いままで」が「これから」と結びついてこそ「今」があるのだという、人間の無意識な生き方がそうさせるのかもしれない。如何に100円のお菓子を買うことと買わないことを結びつけるか、それが問題です。 

  ○ 

 問は答えを選ばせる。問われた私たちは答えの選択を迫られる。その時の態度が私である。私たちは問うことばかり考える、問われなければならない。まなざすのではなく、まなざされること。まなざしかえすこと、時に逃げること。私がその中にいる。