2010年9月17日金曜日

差別をしない/させないために。





今回は、「差別をしない/させない」為にはどうするべきか、という問題を考えていきたいと思います。


ここで云う、差別とは「ある集団・個人を別の集団・個人と区別して、かつその人を精神的・肉体的に攻撃すること」を指します。単純に区別という場合は、攻撃するという意図を含みません。

さて、ここでひとつ大事なことは、「区別」という行為は、生きる上で必要な行為であり、人間であるために当たり前になってしまう、まさに人間の性(さが)とよべるものです。
ここら辺の話は難しいのではしょりますが、これは人間が言葉を使う上で仕方のないことだというのが理由になります。


重要なのは「誤解」と「錯覚」によって、区別が全体性をもち、ある感情が教育によってそこへと結びつくとき、差別が起こると云うことです。

皆さんがマイノリティであり、それによって不都合が生じていると仮定してみてください。なるべく、それをなくそうとか無くなってほしいと考えるのは普通のことだと思います。しかし、自分自身がもし差別をしてしまっているとしたらどうでしょうか? 人に無くしてほしいと願っても、自分がしていたら無くならないのは当然でしょう。
ああ、なんか説教くさい言い方になってしまった。こういう問題は、とにかくお説教などと結びつきやすいので、ちゃんと理屈をもって説明します。


例えば、「最近の若い者は」とか「女って」「男って」とか云う言葉は普段よく耳にすると思います。
でも、そういう言葉を言うときというのは、だいたい、一人や二人、あるいはグループが何かしているのを見たときじゃないでしょうか。
つまりこうしたことを言うとき、その人の頭の中には「個人=全体」が強く結びついているということです。
つまり、「あいつはだめだ」というよりも「最近の学生は駄目だ」といったりする。よく考えるとおかしいですよね。たとえ、その前に同じ光景を二三度見たからそう言ったのだとしても、たかが二三度でしかないのに、です。


これは、多分日本人が陥りやすい、「いい人に思われたい」という欲望が働くからです。
ある人は個人を攻撃すると、たとえその人たちが何の関係が無いことが分かっていても、その人の評価を下げます。関係あるなら、その人たちの関係が悪化します。そしてこのとき、関係ない人がこの光景をみると、だいたい攻撃した人に問題があると感じます。

で、だいたい「あいつは駄目だ」「最近の若い者は」などと言う人は「正義」をもってそうした発言をします。なにも、人から嫌われたいなどと思って言うのではないんですね。思っていても思わなくても「よくしたい(それは彼にとっての良いかもしれないし、社会全体にとっての良いかもしれません)」という気持ちで言うのです。

しかし、直接個人に対してそんなことを言っても仕方がない、個人にいちいち言ってもしょうがないからです、あるいはその人との関係が壊したいとも思わないからです。
こういう、ある意味「人を攻撃したい、でも自分は良い子でいたい」という気持ちが言葉をやわらげようと働きます。

つまり、個人の事ではなく、全体として話すのです。
これが「差別」のはじまりです。

では、いじめのような「差別」はどうなのか、というと、ある程度全体化し、人々に広まった差別は、今度は個人に適応されだすのです。
いじめの中にも、こうしたプロセスが見いだせます。
ある二三人がある一人を差別する、その差別が当たり前だと周りが認識する、さらに「差別される側」のグループにいると認識したほかの人をまた差別する、この繰り返しです。

こうしたことの根本にあるのは先ほども述べた「自分が良いことをしている」という考えです。
つまり、「正義」というものが不必要な「差別」をうむということです。


さて、気をつけたいのは、正義というのは自分が弱者の側であればあるほど強調してしまうことです。
そもそも正義という概念は弱者から生まれたモノです。


這い話が長くなりました。じゃあ、結局「差別はどうすればなくなるのか」。

私の答えは「良い子にならない」と言うことです。
そして、その人が悪いと思ったら、その人が悪いと正直に思うことです。事実を曲げることが悪いことだと「良い子」は気づくべきでしょう。

2010年9月10日金曜日

新しさとは「落ちつかなさ」である。

  今回お話ししますのは、ある意味、哲学の本質は「驚き」である、といったプラトンPlaton、アリストテレスAristoteles、あるいはヴィトゲンシュタインL.Wittgenstein、といった哲学者が言ったような、本質論てきなものです。それが「正しい」かどうかの議論は別にして、私はこれを一つの軸にして考えを深めているというようなたぐいのそんなもの。

それは何かというと「新しさとは何だろう。」ということなのです。そしてその一つの答えとして、私は「それは『落ちつかなさ』なんじゃないだろうか。」と云いたいのです。

これは私の普段からの読書体験に由来するものです。
私は、読書をするとき二つの感覚が交差しているという感じをもっています。
一つは、自分の頭の中(心と云って良いかもしれません)が安定へと向かう感覚、もう一つは反対に不安定になっていく感覚です。具体的な作者で言うなら、高橋源一郎、保坂和志、長野まゆみ、丸谷才一、石川淳、夏目漱石、ヘルマン・ヘッセ、イマヌエル・カント、と云った方々は前者に当たり、青木淳吾、諏訪哲史、猫田道子、多和田葉子、赤染晶子、フランツ・カフカ、アンリ・ド・レニエ、ミシェル・フーコーといった方々の本が後者に当たります。
人によってはそれぞれの作家から得られる感覚はもしかしたら違うかもしれませんし、これは古典とか現代作品とか云った区別に当てはまるものでもありません。そして何より、私はこのどちらの方を好むと云う訳でもないのです。

しかし、やはり「新しさ」というのは現代に結びつきやすいのか、私の場合はやはり現代小説や現代思想の中に「不安定さ」をよく感じます。その不安定さはどこからくるのだろう、と考えてたところ、どうやらそれは作品そのものが、文字が「落ち着かない」「せかせかしている」というところからきているのではないかと、そう思うようになりました。

その「落ちつかなさ」は何も、文章の硬い・柔らかいではありません。論理的逸脱の加減でも無いような気がします。ましてや、突飛さやヘンテコさを持っているからでもないのです。

ただ単に「落ち着かない」、そういう感覚を得る本に対して私の頭(心)は不安定になっていく。
それを感じたとき、私はそれを良いか悪いかではなく、「新しい」と感じます。

そして、そうした作品を読んだ後と読む前では、シコウ(思考、嗜好、指向)が変化するのを感じるのです。

逆に頭(心)が安定へと向かう作品には「力」があります。この「力」という言葉も自分にはまだまとめ切れていないものを感じます。確かに「落ち着かない作品」にも力はあるのです。しかし頭(心)が安定へ向かおうとする作品群の「力」は「強さ」がある。この「強さ」という概念を誤解しないでほしい。
なぜなら、けして「強い」ものが「弱い」ものより強い訳ではないからです。その「強さ」というのは、人によっては「一本気のある」「筋の通った」というような言葉で表現するようなものだと思います。しかし、それが絶対的な優位を有していると考える人はいないのではないでしょうか。私はそういった感覚を松岡正剛の「フラジャイル」に影響を受けて考えています。

話がそれそうなので元に戻しますと、そういう「力」ある作品群は読むと私たちに活力を与えてくれますし、感情を強化してくれます。どっしりと腰を据えて物事を見るような気分にさせてくれるのです。

こうしたことが優位に運べば今云ったような効用が出てきますが、劣位に回ると「落ち着かない作品」は不安やいらだちを生み、「力ある作品」はかたくなさや頑固さを生むでしょう。

私はどちらも重要だと思うのですが、常に「新しさ」を得るということの重要性と危険を常々感じている。やはりバランスの問題だと思うのです。

いつかこういう考え方も新しくなくなる日が来るでしょう、というかもう来ているのかもしれません。
しかしたとえそうだとしても、私としては「温故知新」の言葉を頭の額に飾って本を読むという行為を続けるだけです。そして、今まで私じしん「新しくない」と感じていたものに「新しさ」を見つけたとき、喜びを見いだすかもしれません。

なんだかとりとめの無い話になってしまいました。
今日はここまででとどめておきましょう。多分、私じしんの中でこの考えが「新しく」「不安定」であるからこのような調子になってしまうのかもしれません。

それでは。

2010年9月7日火曜日

良かったことも悪かったことも吐き出してしまうと楽になる。

タイトルの通り、今日はいろんな事を誰かに云うことの効用について書こうと思います。そしてこの事は、なぜこのブログを書こうと思ったか、という理由にもつながっていきます。

叱られた、物を無くした、喧嘩した、よく分からないけれどなんだか面白くない、そういった時に自分の心の中に負の感情とでも呼ぶべき物がどんどんたまっていくのを感じます。そしてそれが溜まってしまうと心身ともに具合が悪くなってしまう。
いろいろと対処法があるでしょうが、そうした物は「さっさと周りに云ったほうがすっきりするよ」とアドバイスを受けたりしたこともあるんじゃないでしょうか。こうした感情を誰かに伝えるだけでも、つまりそれに対して何かアドバイスを受けなくても、すっきりしたりします。

しかし、実はこれは悪いことだけでは無いらしい。これは友人から云われたことなのですが、うれしかった、楽しかった、感動した、といった正の感情も溜まるとなんだか調子が悪い。人というのはとかく「共有する」ということをもとめる存在なんじゃないでしょうか。

よく、何でもかんでも批判(おっと、ここは否定ですね)する人というのを見かけますよね。ああいった人たちに対して私は時々、そんなにいうなら自分でやればいいじゃないか、と思ったりします。しかし、彼らは共有を求めているんじゃないかな、と考えると、ああ、自分のことを見てほしいのねはいはい、という気になって、自分なんかは腹が立たなくなります(それが相手の気分を害する言葉を含んだ場合はどうかと思いますが)。

さらに、こうしたことを「知識」と呼ばれることにも応用していきたいと思うのです。つまり、ためこんでばかりいても知識は腐っていくばかりだし、どんどん天日に晒してしまおう、とこういうわけなんです。

こういってしまうと、なんだか自分自身のためにこのブログを書いているような気がして申し訳ないような気になってきますが。

まあまあ、そんな風に考えを書いていったときに面白いなあと思っていただければとてもうれしく思います。

それでは、今日はこの辺で。

2010年9月6日月曜日

試運転。

今日から、ブログを始めて見ることにしました。
町外れの古本屋「神矢堂」主人でございます。という體でやっていけたらと思います。
まあ、すぐにそんな設定忘れてしまうかもしれませんが。

わざわざ、このようなブログを起ち上げた訳についてはまた後日にでもお話ししましょう。

ここでは、次のことを原則として書いていきたいと思います。

・普段から思っている店主(ふは、店主と来たもんだ)のくだらない考え。
・うちにある本を読んだときのちょっとした感想。

こういうことを中心に書いていき、なるべくプライベートを書かない方向で行こうと思います。

留意点は以下。

・「批判」は大歓迎ですが、「否定」はご容赦願います。(批判と否定の違いも少しずつ書いていきましょう。)
・なにぶん、ブログは初心者(ミクシィは少々)なので、いまいち機能になれないかもしれませんがご了承ください。

それではお客様に愛される店にしていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。