今回お話ししますのは、ある意味、哲学の本質は「驚き」である、といったプラトンPlaton、アリストテレスAristoteles、あるいはヴィトゲンシュタインL.Wittgenstein、といった哲学者が言ったような、本質論てきなものです。それが「正しい」かどうかの議論は別にして、私はこれを一つの軸にして考えを深めているというようなたぐいのそんなもの。
それは何かというと「新しさとは何だろう。」ということなのです。そしてその一つの答えとして、私は「それは『落ちつかなさ』なんじゃないだろうか。」と云いたいのです。
これは私の普段からの読書体験に由来するものです。
私は、読書をするとき二つの感覚が交差しているという感じをもっています。
一つは、自分の頭の中(心と云って良いかもしれません)が安定へと向かう感覚、もう一つは反対に不安定になっていく感覚です。具体的な作者で言うなら、高橋源一郎、保坂和志、長野まゆみ、丸谷才一、石川淳、夏目漱石、ヘルマン・ヘッセ、イマヌエル・カント、と云った方々は前者に当たり、青木淳吾、諏訪哲史、猫田道子、多和田葉子、赤染晶子、フランツ・カフカ、アンリ・ド・レニエ、ミシェル・フーコーといった方々の本が後者に当たります。
人によってはそれぞれの作家から得られる感覚はもしかしたら違うかもしれませんし、これは古典とか現代作品とか云った区別に当てはまるものでもありません。そして何より、私はこのどちらの方を好むと云う訳でもないのです。
しかし、やはり「新しさ」というのは現代に結びつきやすいのか、私の場合はやはり現代小説や現代思想の中に「不安定さ」をよく感じます。その不安定さはどこからくるのだろう、と考えてたところ、どうやらそれは作品そのものが、文字が「落ち着かない」「せかせかしている」というところからきているのではないかと、そう思うようになりました。
その「落ちつかなさ」は何も、文章の硬い・柔らかいではありません。論理的逸脱の加減でも無いような気がします。ましてや、突飛さやヘンテコさを持っているからでもないのです。
ただ単に「落ち着かない」、そういう感覚を得る本に対して私の頭(心)は不安定になっていく。
それを感じたとき、私はそれを良いか悪いかではなく、「新しい」と感じます。
そして、そうした作品を読んだ後と読む前では、シコウ(思考、嗜好、指向)が変化するのを感じるのです。
逆に頭(心)が安定へと向かう作品には「力」があります。この「力」という言葉も自分にはまだまとめ切れていないものを感じます。確かに「落ち着かない作品」にも力はあるのです。しかし頭(心)が安定へ向かおうとする作品群の「力」は「強さ」がある。この「強さ」という概念を誤解しないでほしい。
なぜなら、けして「強い」ものが「弱い」ものより強い訳ではないからです。その「強さ」というのは、人によっては「一本気のある」「筋の通った」というような言葉で表現するようなものだと思います。しかし、それが絶対的な優位を有していると考える人はいないのではないでしょうか。私はそういった感覚を松岡正剛の「フラジャイル」に影響を受けて考えています。
話がそれそうなので元に戻しますと、そういう「力」ある作品群は読むと私たちに活力を与えてくれますし、感情を強化してくれます。どっしりと腰を据えて物事を見るような気分にさせてくれるのです。
こうしたことが優位に運べば今云ったような効用が出てきますが、劣位に回ると「落ち着かない作品」は不安やいらだちを生み、「力ある作品」はかたくなさや頑固さを生むでしょう。
私はどちらも重要だと思うのですが、常に「新しさ」を得るということの重要性と危険を常々感じている。やはりバランスの問題だと思うのです。
いつかこういう考え方も新しくなくなる日が来るでしょう、というかもう来ているのかもしれません。
しかしたとえそうだとしても、私としては「温故知新」の言葉を頭の額に飾って本を読むという行為を続けるだけです。そして、今まで私じしん「新しくない」と感じていたものに「新しさ」を見つけたとき、喜びを見いだすかもしれません。
なんだかとりとめの無い話になってしまいました。
今日はここまででとどめておきましょう。多分、私じしんの中でこの考えが「新しく」「不安定」であるからこのような調子になってしまうのかもしれません。
それでは。
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