2014年6月15日日曜日
語学を「嗜む」ということ
大学でドイツ語を初めて以来、一〇年が経ち、自分の中で「外国語と暮らす」ことは生活の一部になっている。それでいながら、いっこうに外国そのものに興味をもつことが無いのは、自分にはことばというものばかりが目の前にあり、そのほかの、とくに国といったものがあまりに遠く、触れようのないものであるために、たとえばその国の人が何を食べどのような家に住むのかを知るのと、隣三軒の人々が日々どのように暮らしているかを知るのとが、たいした違いが無いように思えてしまうのと同じで、興味の無さそのものに原因があるのではないかと考えている。つまり、どんなに近くても、知りたいと思わなければ遠いのであり、遠さそのものが遠い近いを決めるとは限らない。
だからといって、言語学者になりたいなどと思ったことはついぞ無く、やはり言葉を「通して」なにかを知ることに楽しみがあるのだけれど、自分はそれがより個人の方へ向いているのも、外国というものへの興味の無さに関係しているのだろう。
たとえば、ドイツ語はカフカ、フランス語はアンリ・ド・レニエなどの世紀末の文学者、ポルトガル語はフェルナンド・ペソアなどなど。
よく、作家の生まれ故郷へ行くことで作家のことを知った気になる人がいるけれども、あれはいまいちぴんとこない。彼らは地平という横の向きばかりで同じところに立っていると考えるようだけれども、時間という縦の軸から見れば著しくずれているではないか。しかも時間を同じくすることは不可能ではないか。
出不精の戯言と思う人もいるだろうけれど、言葉のみで向き合うからこそのおもしろさというもの、想像の膨らみ(あるいは、誇大妄想)に耽る喜びを忘れることは、なんだか頭の中にある泉を枯らしてしまうことにつながるのではないだろうか。
ある意味でリアリティではなく、リアルが隣にありすぎることに、人が疲弊してしまうこと。
確かに僕らが向き合う物は概してリアルなものだ、それは別に創作物であろうと変わりない。つまり、書かれたり、描かれたり、演じられたり、撮られたり、弾かれたり、そういったことを「されたもの」がいくらフィクションの側のものであっても、それに出会っている、対峙していること、そのものはあくまで現実のことで、僕らはその現実の中でフィクションの側のリアルを感じている、それがリアリティというものなんじゃないだろうか。
それなのに、今はこちら(現実)のリアルをあちら(虚構)に持ち込み、あちらのリアルをこちらにもちこむことが意識されないままに行われているせいで、こちらとあちらの距離感がくるってきているような気がする。
ぼくは現実と虚構のあいだに国境みたいなものがあるとは思わないし、そのあわいはもっとゆるやかなものだと考えている。そこにあるのはもしかしたら二色の濃淡でしかないのかもしれない。
濃淡という、地平よりももっとセンシティブなものであるからこそ、慎重に扱うべきなのに、当たり前のように線引きできると考えているから線引きしたところの近くで混じっていた向こう側のものがすべてこちら側として扱われてしまう。灰色は無数の灰色があるはずなのに、すべては白か黒になる。
僕らがもっと大切にしなければならないのは、リアルではなく、「リアルとの距離感」じゃないだろうか。
言語を嗜むという行為には、その距離感を感じることの出来る可能性が含まれているように思えるのだ。
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