2011年8月1日月曜日

道化の構造


『道化』とは、自己を相対的地位において低く見せることで相手に笑い(ひどく攻撃的な)を発生させ、他者の利己的欲求を満たす者をさす。 

『道化』はなるのではなく、ならされる。 

ある集団において、個人の「位置」の固定が形成される様子から参加しているものと、形成後参加した者は明らかに違う。後者はその「位置」を当たり前のものとして考えるからである(フーコー)。 

『道化』の地位に固定化させられた者は己の行動を『道化・化』する義務を課せられる。それに反する行為には、ささやかな失望と冷笑を集団の参加者は与える。地位からの脱却は、集団そのものの脱却か、スケープ・ゴートを必要とするだろう。集団への固執度、そして、より善的であるならば、この脱却は容易たらしめることはない。 

かくして、『道化』は「道化である」ことを日常化され、彼そのものの特質として「道化である」が付与されているかのような錯覚を、人は持つようになる。『道化』の地位という場が彼の本質として認識される。本質と認識された彼は常に「道化である」ことを強迫されている。 

強迫された「道化」において、彼の心的圧迫からの逃避は、まさに自らが『道化』であることそのものに見出すようになる。それは一つのエポケーと云っても良い。

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