夏の歌
古今和歌集を読むと、夏の歌は三十二首、全ての題の中でもっとも少ないのは、そもそも夏という季節が日本人にとって雅ではなかったことをあらわしているのかもしれない。 ただ、次第に文化が「雅」から「俗」へと性格を変えるにつれて、夏というものは文化的にもその位置を高めていったと考えられる。 それは、たとえば芭蕉の「しづけさや」の句でも良いし、サザンやTUBEの歌でも良いかも知れない。 そもそもなぜ「雅」にとって、夏は忌むものなのだろうか。 考える視点をあげてみれば、例えば夏は生ものが傷みやすい所から「腐り/死」をもたらすものだからともいえる。これは「雅/聖/生」として見る視点から。夏が死に近いというのは「お盆」という行事からも考えることは可能だ。 こうしたことはかなりこじつけも含まれるが、ただこうした何気ないつながりを考えることは、隠されているものを表に出す際には重要であることは、フロイトが示してくれている。 しかし、別の点から考えれば、夏はもっとも生と死が近づく季節であるとも言える。その暑さは體の熱さでもあり繁茂する植物に見るように、生命がもっとも活動するという表をひっくり返すと死へと近づくエネルギーがもっとも盛んであるということでもある。 そんな此岸と彼岸の境にもっとも近づく季節である夏は、日本人にとっては「非人間的=非雅的」な季節なのかもしれない。
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