一週間で二冊本を読んだ。
遅読な自分としては速いペースだ。
二つの「技術」について。
石黒圭の「読む技術」と高田明典の「コミュニケーションを学ぶ」。
ペースが速かったのは、多分自分の中で「分かる」という感じが強かったからだろう。それが言語化されているという気分で読んだ。
「読む技術」の方は、「読む」という時に使われている技術について書いてある、まあ、そのままですな。速読と精読の他に「味読(まいどく)」を加えた三種類の読み方を教えている。
良い意味でも悪い意味でも「教科書的」ですが、主張は正しいと思います。
つまり、「書く」や「話す」にも技術があるように、「読む」にも技術があるということ。
「聞く」に関していえば、一番の教科書はミヒャエル・エンデの「モモ」だ。
それに対して、「読む」という技術を教えてくれる本はなかなか無い、というのも速読しか教科書として無い。
そんな中、良いのは松岡正剛の「読書術」なのだけれど、どうしても頭に「私の」という言葉がつく。だから、一般的な「技術」として語られた本はこの本くらいかもしれない。
こういう技術系の本は概して「そんなことを考えず、ただ読め!」という意見に気圧されがちだけれど、僕はそう思わない。それはコミュニケーションにもいえて、もう一つのほうでも言うけれど。
やはり「スキル」はスキルとして大事なのです。
なぜなら、僕たちの大半は天才じゃないから。ほとんどは凡才、よくて秀才なんです。だからこそ技術は習う必要があるし、学ぶ必要がある。
ただ漫然と読むよりも、こうした型を知った方が読みの角度が増える。
垂直的にしかよんでこなかったものを、45°の角度で見てたり、或いは10°の角度で読む、そうした読みの多さを持つことは、畢竟、自分を多くすることだと思うんです。
それはバフチンの「多声性」やブーバーの「我-汝」にも繋がる。
(これらは「コミュニケーションを学ぶ」に出てきたのは内緒)
続けて「コミュニケーション技術」を読んだのが良かったのかもしれない。
繋がるところが多かったし、自分は意図せずやっているものを意識化できたから(もちろん、意識化が全て良いわけじゃない、歩くことを意識すると途端にぎこちなくなることがあるように、スムーズにいってたものがきゅうにがくがくする、まあ「意識化」というのは概してそんなモノだと思う)。
話がそれるけれども、ちくまプリマー新書は良い。
高校生向け、すこし背伸びした中学生向けのこの新書は大事なエッセンスを語りかけるような言葉が選ばれていて、入門書としては大人が読んでも良い。入門書嫌いな人には多分、入門書自体の意義を否定するかもしれないが、ぼくとしては入門書などは「アタリを付ける」ものだと思う。絵で言うなら、最初から絵そのものを書くんじゃなくて、どこに何を書くかを大まかに決めるような。入門書を読むのは、そうした「アタリの付け」方を学ぶことだと思う。何度もそういうモノを自己流でやってれば自然と覚えるさ、という人は器用なのだろう、ぼくは不器用なので出来ない、だから学ぶ。
「コミュニケーションを学ぶ」を書いた高田明典にはもう一冊「現代思想のコミュニケーション的転回」という本がある。「学ぶ」はこの「転回」をぎゅっと凝縮した感じのある本で、所々で「うーん、そう云うにはちょっと言葉が足りなく無いかなあ」と思えるところが多いけれど、「コミュニケーション学」に対して「アタリを付ける」には十分な本だと思う。
特に、防衛的や敵対的なコミュニケーションの方法は、コミュニケーション=自分の言いたいことを的確に伝えるという風に考えている人には良い打点になるんじゃないだろうか。
余談だけれど、読んでいて、ああ、自分はずっと「コミュニケーション」について考えてるんだなあとしみじみ思った。
最後に小説について。
今よんでいるのはアリステア・マクラウドというカナダの作家が書いた「冬の犬」という短篇集。この人はもう80近いんだけど、20に満たない作品しかない(しかもほぼ短篇)、超が付くほど寡作の作家。ただひとつひとつのクオリティがすごくて、読んでいると「ああ、小説ってこういうのを言うんだ」と思える。おすすめします。
一方読んでいるのが、岡本綺堂の作品、和製ホームズ第1号と言われる「半七捕物帳」の作者。中公文庫で読物集がでてたので買ってみたら、今まで読まなかったことを後悔しました。文章が良い。明治の作家で今も読むに耐えられる作家って、実は漱石じゃなくて綺堂じゃないかしら。綺堂の作品を読むと、漱石の文体はやっぱり明治だって思えてくる。実は鴎外や綺堂の方が文章的には漱石よりも現代に通じるものがあると考えます。
遅読な自分としては速いペースだ。
二つの「技術」について。
石黒圭の「読む技術」と高田明典の「コミュニケーションを学ぶ」。
ペースが速かったのは、多分自分の中で「分かる」という感じが強かったからだろう。それが言語化されているという気分で読んだ。
「読む技術」の方は、「読む」という時に使われている技術について書いてある、まあ、そのままですな。速読と精読の他に「味読(まいどく)」を加えた三種類の読み方を教えている。
良い意味でも悪い意味でも「教科書的」ですが、主張は正しいと思います。
つまり、「書く」や「話す」にも技術があるように、「読む」にも技術があるということ。
「聞く」に関していえば、一番の教科書はミヒャエル・エンデの「モモ」だ。
それに対して、「読む」という技術を教えてくれる本はなかなか無い、というのも速読しか教科書として無い。
そんな中、良いのは松岡正剛の「読書術」なのだけれど、どうしても頭に「私の」という言葉がつく。だから、一般的な「技術」として語られた本はこの本くらいかもしれない。
こういう技術系の本は概して「そんなことを考えず、ただ読め!」という意見に気圧されがちだけれど、僕はそう思わない。それはコミュニケーションにもいえて、もう一つのほうでも言うけれど。
やはり「スキル」はスキルとして大事なのです。
なぜなら、僕たちの大半は天才じゃないから。ほとんどは凡才、よくて秀才なんです。だからこそ技術は習う必要があるし、学ぶ必要がある。
ただ漫然と読むよりも、こうした型を知った方が読みの角度が増える。
垂直的にしかよんでこなかったものを、45°の角度で見てたり、或いは10°の角度で読む、そうした読みの多さを持つことは、畢竟、自分を多くすることだと思うんです。
それはバフチンの「多声性」やブーバーの「我-汝」にも繋がる。
(これらは「コミュニケーションを学ぶ」に出てきたのは内緒)
続けて「コミュニケーション技術」を読んだのが良かったのかもしれない。
繋がるところが多かったし、自分は意図せずやっているものを意識化できたから(もちろん、意識化が全て良いわけじゃない、歩くことを意識すると途端にぎこちなくなることがあるように、スムーズにいってたものがきゅうにがくがくする、まあ「意識化」というのは概してそんなモノだと思う)。
話がそれるけれども、ちくまプリマー新書は良い。
高校生向け、すこし背伸びした中学生向けのこの新書は大事なエッセンスを語りかけるような言葉が選ばれていて、入門書としては大人が読んでも良い。入門書嫌いな人には多分、入門書自体の意義を否定するかもしれないが、ぼくとしては入門書などは「アタリを付ける」ものだと思う。絵で言うなら、最初から絵そのものを書くんじゃなくて、どこに何を書くかを大まかに決めるような。入門書を読むのは、そうした「アタリの付け」方を学ぶことだと思う。何度もそういうモノを自己流でやってれば自然と覚えるさ、という人は器用なのだろう、ぼくは不器用なので出来ない、だから学ぶ。
「コミュニケーションを学ぶ」を書いた高田明典にはもう一冊「現代思想のコミュニケーション的転回」という本がある。「学ぶ」はこの「転回」をぎゅっと凝縮した感じのある本で、所々で「うーん、そう云うにはちょっと言葉が足りなく無いかなあ」と思えるところが多いけれど、「コミュニケーション学」に対して「アタリを付ける」には十分な本だと思う。
特に、防衛的や敵対的なコミュニケーションの方法は、コミュニケーション=自分の言いたいことを的確に伝えるという風に考えている人には良い打点になるんじゃないだろうか。
余談だけれど、読んでいて、ああ、自分はずっと「コミュニケーション」について考えてるんだなあとしみじみ思った。
最後に小説について。
今よんでいるのはアリステア・マクラウドというカナダの作家が書いた「冬の犬」という短篇集。この人はもう80近いんだけど、20に満たない作品しかない(しかもほぼ短篇)、超が付くほど寡作の作家。ただひとつひとつのクオリティがすごくて、読んでいると「ああ、小説ってこういうのを言うんだ」と思える。おすすめします。
一方読んでいるのが、岡本綺堂の作品、和製ホームズ第1号と言われる「半七捕物帳」の作者。中公文庫で読物集がでてたので買ってみたら、今まで読まなかったことを後悔しました。文章が良い。明治の作家で今も読むに耐えられる作家って、実は漱石じゃなくて綺堂じゃないかしら。綺堂の作品を読むと、漱石の文体はやっぱり明治だって思えてくる。実は鴎外や綺堂の方が文章的には漱石よりも現代に通じるものがあると考えます。