2013年8月11日日曜日

「風立ちぬ」メモ その1


・堀越二郎

 宮崎作品の登場人物の中でも何を考えているのかが読めない。周りの人間に対する受け答えをどことなくぼんやりと受ける。

 彼の行動原理はそもそも「美の追求」であり、その行動律に触れないものはことごとくぼやけるのである(まるで、眼鏡をかけないでみる近視の世界のように)。彼の美に対する焦点は常に定まっていて、ぶれることがほとんど無い。だが、その精確無比な焦点はごろごろと変化する世界を前に彼の歪みとしてあらわれる。一分の狂いも無い直線ほど自然の中で不自然なものはないのと同じだ。彼の行動は美を前にしては素早く、そして手際が良い。設計図を描き、計算尺を操る彼の手は無駄が無い。美を顕すものを前にしたら礼儀を忘れない、ユンカース博士を前にした彼は同僚の本庄より先に帽子を脱ぐ。

 それでいて、少しでもそこから外れた物事に対する彼の愚鈍さはどうだろう。その動作は亀の歩みを擬する。上司や同僚の言葉も耳に入らない。どことなく、一手遅れている。例えば、婚儀のとき本来ならば黒川夫妻に礼を述べるのは夫である二郎の役割ではないだろうか。それなのに、彼は菜穂子が黒川夫妻に向かって感謝の辞を話すのを聞いて、初めてそれに気付いたように横に並ぶのである。

 彼は天才である。天才であるが故の歪み。その歪みに誰もが惹かれている。

 表情の乏しさ。感情の欠落。庵野秀明の声はまさにそのために必要だった。演技をしてはならない。まるで人形のような、しかし人形が人形であることを自覚していないような。

 金持ちの家に生まれた、階級が上流の人間特有であるだろう、他者を考えることが出来ないという病。その病に無自覚な人間が、行う優しさ。それが受け入れられなかったときの困惑。子供らにシベリアを与えようとして逃げられたときの呆然とした姿。本庄に自分のアイディアを譲渡するが、「折角だが、これは使わん」と言われた時の表情。彼には、自分の行う好意がなぜ受け入れられないのかが分からない。震災のとき、おきぬを助けたときのように、自分のすることは感謝されて当然のはずなのに、と思わずに思っている。

 彼は当たり前のように嘘をつく。それには悪気がまったく感じられない。特に心に残る嘘は何か。菜穂子に言う、初めて会った時から君のことが好きだった、という言葉。そんな訳は無い、彼はむしろ女中のおきぬに惚れていた。だからこそ、計算尺とシャツが大学に届けられた時、彼の想った人はおきぬであった。軽井沢で再び菜穂子と見えたとき、結局彼は菜穂子が名乗るまで気付かなかった。しかし、彼のいう言葉に矛盾があったとして、そこに悪意が微塵も感じられない。その残酷さ。

 眼鏡をかけてみるということ。まさに言葉通りの、そして慣用句としての。彼は寝ている時でさえ眼鏡を外さない。眼鏡を外して眠るのは、最初とそして零戦の原型機が完成したときに菜穂子が外した、その二度だけだ。 

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