2013年3月16日土曜日
(僕は教養主義者でも、原理主義者でも無いが……)
僕は教養主義者でも、原理主義者でも無いが、いわゆる「古典」というものを大事にする人間だという自覚はある。だからこそ、小説は自分が好きなものだけ読めば良いじゃ無いか、絵や映画も好きなものを観れば良いじゃ無いかと思っているのに出会うと、なんだかなあ、と思う。それは、あまりに自分がそれを好きだということに無自覚だし、あえて人が良いと思うものごとを避けて自分を自分たらしめたいだけではないかと考えてしまう。簡単に言えば、自分が自分である、ということをそうした小説や絵や映画なんかを使って証明したいだけなのであって、実はそれらのものに対して感じることも少ないのでは無いかと疑ってしまう。ただ、大体においてこの疑いが晴れることは無いのだけれど。
日本にいて、特に原書で本を読もうとしないのであれば、そうした自分づくりは大したことがないんじゃないだろうか。どんな本でも、翻訳を読むと云うことは、すでに認められたものを読むことであり、誰かの目や耳や手を通しているのだから、それでいくら自分づくりをしたって、ぼろぼろくずれる砂の自分にしかならない。
原書を読めというのではなく、自分づくりに利用するなということ。
日本の批評、批評と大層な名前を付けなくても何かを評価することに今ではいつでも誰かのものに触れている。それは140文字であったり、ホームページの一コンテンツを成り立たせるくらいであったり様々だけれども、amazonのレビューでも良い、見て思うのは、「好き嫌い」以上のことが書かれていないこと、特に「嫌い」はただの「嫌い」以上を伝えてこないことだ。
他の国でもそうなのかもしれない、日本だけと云う風に見るのは早急だろうが、もしこれが世界的な現象なら、なんと言葉の貧相で、貧弱で、血の通わない、文章しか無いのだろう。
「古典」を読まないというのはそういう文章で満足することだ。
語るだけ語り、何も受け取らないのであれば、その言葉は栄養失調なのだ。だけどそれすら気付いていない、言語の拒食症に陥っている人々は言葉を消化できず、詰め込んで吐いている。そう、ただ吐き出している。つまり嘔吐物をまき散らされて、さらに人々はその嘔吐物を食らい、また嘔吐する、そんな言葉の吐瀉に晒されてなお平気でいる神経が出来上がってしまっているのだ。
つまり、消化した残りかすでもない。糞便ですらない。
そんなスカトロジーが御免である私が目指すものは、カニバリズムなのでしょう。異常であることに変わりはないのだけれど。
言葉のカニバリズムに快楽を覚える必要がある。
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