2013年3月2日土曜日

最終講義を聴きに行く。


 教授の定年が早まり、今年64歳なのですが野家先生が本年度で退官ということで、最終講義を聴いてきました。学生の時に基礎講義を聴いただけである自分が潜り込むように講義室に入ると、今までの教え子なのでしょう教授クラスの御仁がみな受講席に座り、教卓を前にしていまかいまかと云う感じで待っている。なかなか学生さんの姿が見えないのは残念でなりませんが、きっとお手伝いなどをされているからだったのでしょう。 
 まあ、いてくれなかったせいで場違い観が半端なかったなんて不平はいいませんよ、私は。
 さて、 

 タイトルは「無題(untitled)」 

 ということで、何もテーマを決めずに話すのかと思っていたら、なんと、「無題」であることをテーマにしたというこの感じ、最初っからやってくれます。 

 本人としては三題噺を想定していたようなのですが、時間の都合上、 

 1,無-主題論 
 2,無-主語論 

 の二つを講義されました。(残る一つは「無-主体論」でこれは別の場所ですでに講演した内容と重なるため、というのも今回話さなかった理由だそうです) 

 内容は、本当に簡単に言うと。 
 1,私たちはある芸術作品に向きあう時、「題名」を知らず知らずのうちに欲していて(「題名」を持たないものに不安を覚えて)、その「題名」のために解釈を狭めている/強制されている。
 ここには「主語と述語」の関係があり、作品と題名は「問いと答え」の関係にあたる。 
 しかし「無題」であること(これは別に題名が無いだけでなく、無題性、つまり番号だけのもの、宮沢賢治の「作品第1042番」、「シャネル No.5」という香水、と云ったものも含まれる)は、私たちが作品へと近づく時に「謎」を持たせる。つまり「問いと答え」の逆転がそこにあり、さらにはそうした「主語と述語」という関係性そのものを疑う立場へともたらすのである。 

 2,1のような考えを経て、そもそも主語と述語という関係は西洋哲学において存在論が前提としているものであった。「無題」であるということはこの主語と述語という関係に揺さぶりをかけるのであり、つまりそれは存在論への揺さぶりにも繋がるのである。 
 そもそも存在とは何か、その問いは分析哲学でも広く行われており、二極化されている。つまり、なるべく存在であるものを狭めようとするデフレ的存在論(自然科学における唯物的な考え方)、反対により積極的に存在するとよべるものを増やそうとするインフレ的存在論(プラトニズムなど)、この二つである。 
 しかしこの二つの存在論の間を考えてみたい。 
 日本語には主語が無い(三上章の有名な本「象は鼻が長い」に言及)という主張がある。この考えはラッセルの考えにつながる。 
 ラッセルとクワイン、クリプキなどの考えはそれぞれに興味深いがフィクショナルな存在や仮定の中の存在(鼻の低いクレオパトラ)を問題にする時論理の破綻が起こってしまう。 
 こうしたなか「物語り論」的な観点で存在論を見るとどうなるだろう。(「物語り」については野家啓一「物語の哲学」を参考にして下さい) 
 存在というものは科学理論さえも含むあらゆる「物語り」の中で語られるのであり、その中で初めて「シャーロック・ホームズ」や「鼻の低いクレオパトラ」について語る事ができるのではないか。 
 その時存在は「濃度」をもっている。 

 うーん、1の主張はわかりやすいけれど、2は分析哲学の知識が入ってくるので途端に説明が上手く出来なくなる。ちゃんと読もうと思いました。

 ちなみにそのあとディスカッションもしていたのですが、途中で抜けてきてしまいました。 

 野家先生というと、専門は科学哲学と分析哲学の二つを思い浮かべますが、現代哲学全般に詳しい方だと思ってました。 
 その時は、自分もなかなか知識が足りず理解力もなかったので話が掴みづらく付いていくのがやっと、時々負けて舟をこいでしまったこともありました。それから5年以上が経っていますし、自分もそれなりに知識の蓄えが増えてきたので、今回はどうかなという、気持でした。
 結果は、以前よりかは呑みこめたけれども、それについて疑問を突きつける確証が自分にはないなあと云う印象。でも、もし質問を促されたなら、カフカの遺稿と繋げてすこし聞いてみたいなあと思ったりしました。

 たとえば、カフカの遺稿はほとんど題名が付けられておらず、中には題名を付けることでそのおもしろさが半減してしまうものもあるように思われる。 

 ブロートはある遺稿に「橋」というタイトルを付けた。 
 しかし、カフカの文章の書き出し「身が縮み上がり、寒い。」という感覚の描写から、急に「私は橋だった。」という流れに持っていく意外性は、「橋」というタイトルのせいで半減してしまうのではないか、と思う。 
 つまり、「橋」というタイトルによって、私たちは読む前に準備されてしまうのを感じます。という、感想は出てくるんですが、そこからさらに問いに発展できない。これが僕の悪い癖(どこかの杉下さん風に)。

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